2009/3/10

ギクッ!  教育・学校・教師

 3月も半ばに差し掛かり、先生方皆さん、本当に忙しい様子が見られます。しかし、忙しい時期こそ、お互いを支えあい、何とか凌いで行きたいものです。

 最近、印刷室に紙が散らかっていたり原稿が置き放しになっていることが少なくありません。印刷機の設定や、紙押さえ幅がそのままになっていることも目につきます。
一人の先生が忙しさのためにやり放したことのために、次の先生が忙しさに忙しさを重ねるようでは申し訳ありません。ぜひとも、丁寧な仕事に心がけましょう。

・・・と穏やかに言っておきますが、実は昨日、
 朝、A4反故紙の裏に印刷していたところ中にB5の紙が挟まっていて、おかげで印刷機が止まってしまいました。印刷ドラムを引き出して、それを左手に持ったまま、B5用紙を取ろうと腰をかがめたところ、背中で「ギッ」という音がして、それからゆっくり「ク〜」と音が伸びて、以来1日、動くたびに「ギクッ!」「ギクッ!」と痛みが走るようになってしまいました。ぎっくり腰の背中版です。

 本当に腹が立って地の果てまで犯人を捜しに行こうと思ったのですが、背中が痛くて行けませんでした。
 ギクッ!!

 みなさん、紙の分別も丁寧に行いましょう。


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2009/3/9

感情のホメオスタシス  教育・学校・教師

 生物のもつ重要な性質のひとつで、「生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質」を恒常性(ホメオスタシス)と言うのだそうです。たとえば恒温動物は気温の上昇などによって体温が上がりそうになると発汗や皮膚の血管の拡張によって体を冷やし、下がり始めると震えや代謝の亢進によって体温を上げようとします。病原菌やウイルスといった異物を排除したり、傷の修復といったこともホメオタシスの重要な働きです。

 そこまでが生物学の話なのですが、最近、心にもホメオタシスがあるのではないか、といった話を本で読みましたので紹介します。

 それによると、宝くじを当てた高額所得者も、それで生活を派手にするのではなく、いつの間にかもとの生活に戻ってしまう、というのです。下世話に「美人には三日で飽きる、ブスには三日で慣れる」と言いますが、どんなにすばらしいものを獲得しても、そうでない場合も、基本的には生活はあまり変わりないらしいのです。

 これを現実生活に当てはめてみると、どんなに欲望を遂げても幸福感に包まれたまま長くいることはできないし、どんな不幸にも私たちは慣れることができるということです。もちろん限度はありましょうが(肉体のホメオタシスも限界を越えて機能することはできません)、欲望は尽きないし、不幸にも底があるということになります。

 さて、そうしたことを前提にどう生きるか。子どもの人生を考える上でも大切なことかもしれません。
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2009/3/6

「クソババアには指導はできない」〜学校の常識A  教育・学校・教師


 女の先生が児童生徒から「クソババア」と呼ばれたら瞬間的に叱り飛ばさなければなりませんし、実際にそうなります。男の先生が「クソジジイ」と呼ばれたり「このヤロー」と言われたときも同じです。

 これは単に悪態をついたとか言葉が汚いという問題ではありません。それは、例えば普通のサラリーマンが上司に向かって「このヤロー!」と叫ぶとき、何を考えているか想像してみれば分かることです。「このヤロー」と叫ぶ者は、その瞬間、上下の関係を打ち破ろうとし、同時に人生を失うのです。

「クソババア」と呼ばれてそれが常態化すれば、二度と指導はできなくなります。それは親も同じです。クソババアの言うことを真面目に聞くような子はいませんし、クソババアに真摯に学ぼうという子もいません。自分が乗り越えてしまった者、見下している者から指導を受けることなどできないからです。

「大人の言うことを何でもハイハイと聞くような子はロクな者ではない」という言い方もありますが、親も教師も殆どの場合、間違ったことは言いません。「勉強しなさい」「身だしなみをしっかりしなさい」「食事はきちんと取りなさい」に対して、いちいち「ウルセー、クソババア」では、伸びる子も伸びません。少なくともその人から与えられるべき成長の機会は、決定的に失われてしまうのです
 そうしたことを知っているから私たちは集中豪雨のように怒りますが、世間の常識では「そこまでやることはないだろう」ということになります。

「ウチの子、最近ちっとも言うこと聞かなくて、やっぱり反抗期なのかしら」
などとのん気なことを言っているお母さん、冗談ではありません。小学生の間くらい親の言うことが聞けなければなりませんし、道理の通ったことなら高校生だって言うことを聞かなくてはなりません。

 それが学校の常識です。
 あたりまえでしょ?

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2009/3/5

「学校の常識」@  教育・学校・教師


「学校の常識は世間の非常識」と言われますが、学校内で当然と考えていることが、世間では少しずれている、ということがよくあります。

 例えば、小学生が親に無断で買い食いをしたとか、学校外へ子どもだけで遊びにいったとかいった話を聞けば、教師は当然指導の対象と考えますが、保護者の中には「?」マークを頭につけて、首をかしげている人がいます。
「その程度のことで、何で怒られなければならんの?」というのが率直な思いなのでしょう。その点では親子共通しています。

 「死ね」といういたずら書きをした子どもの指導をしたら、保護者があちらにも悪いところがあると抵抗したという話がありました。これなども典型で、子どもは軽い気持ちで書いたのだからこんな重苦しい指導が果たして必要なのかと、心の奥底では不信感を燃やしているのです。学校の常識は世間の常識ではありません。

 さてところで、15年前の愛知県・大河内清輝くんの事件や「葬式ごっこ」で有名な鹿川裕史君の事件では、そのいじめの過酷さが次第に明らかになり、ここまでやられれば死ぬのも分かるな、と思わせるものがありました(逆に、同じ人間がなぜここまでひどいことができるのかという疑問は残りました)。しかし最近のいじめ自殺事件報道を見ていると、そうした納得ができる事実が、なかなか出てきません。たしかにいじめはあったにしても、大河内くんたちと比較すれば、これで本当に人間は死ねるのかと、首を傾げるような事例が数多くあるのです。現代では「死ね」と言えば本当に死んでしまう子がたくさんいるのかもしれません。

 ただし世間の人たちは、「実際に自殺したんだから、それに見合う事実が合ったに違いない」と考えます。ましてや学校が「これはいじめによる自殺です」と認めれば、『加害』の子の残虐性は確定しますから、その子の家は崩壊します(瑞浪事件や佐世保事件の『加害者』たちは、今やネット上に名前を曝され、多くのネット・ウォッチャーが鵜の目鷹の目で彼女たちを探しています)。

「死ね」と口にしたり書いたりするのは、相手が本当に死んでもいいと思え、その結果をすべて背負う覚悟ができたときだけです。

「死ね」を軽く考える保護者にはこうした話をしてあげるといいのかもしれません。


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2009/3/4

ひな  言葉

 雛人形や雛祭りの華やかさから、若い頃「鄙(ひな)」というのは都会のことだと思い込んでいた時期があります。したがって「鄙にも稀な美人」は「都会にもめったにいないような美人」ということで、筋が通っていたのです。

 ところが、「鄙」が都会だとすると「鄙びた温泉」といった言葉が分からなくなります。「都会じみた温泉」では風情も何もあったものではありません。ここはどうしても「田舎じみた」「地味で風情のある」といった感じですから「鄙」は都会ではありえないのです。そこで改めて辞書で調べるとただ一言。「鄙=田舎のこと」とあるではありませんか。

 そうなると今度は「鄙にも稀な美人」の方が分からなくなります。「田舎にも稀な美人」では意味が通りません(「田舎にも、稀な美人がいたよ」の略か?)。ここはやはり「鄙には稀な美人」でなければならないはずです。

 ちなみにグーグルで検索してみると「鄙には稀な」が34400件、「鄙にも稀な」は31100件で、「には」の方がやや優勢のようです。しかし正反対の言葉が拮抗しているというのも、不思議といえば不思議ですね。

 ところで「鄙」について調べようと思ったのは、だいぶ昔に見たテレビの中で、一人の老人が「いいねえ、こういう『しなびた温泉』もォ」というのを耳にしたからです。

「しなびた温泉」たしかに感じは分かりますが、温泉なのに潤いというものがまったくありません。




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2009/3/3

3月3日  教育・学校・教師

 昨年も書きましたが、今日、3月3日はひな祭りであると同時に、「耳(33)の日(日本耳鼻咽喉科学会、1956年制定)」でもあります。そして電話の発明者であり、生涯に渡って聴覚障害の教育の研究を続けたアレクサンダー・グラハム・ベルの誕生日でもあります。

 耳の日3月3日には因縁があって、そのグラハム・ベルの紹介で、アン・サリバンがヘレン・ケラーの家にやってきたのが、やはり3月3日だったのです(1887)。

 私は、このアン・サリバンという21歳の女性についてかなり知っているつもりでいました。しかし、もしかしたら子どものころ読んだ児童向けの「ヘレン・ケラー伝」と映画「奇跡の人」くらいしか知らなかったのかもしれません。それは最近、『ヘレン・ケラーはどう教育されたか サリバン先生の記録』(明治図書 1995年)という本を読んで、アン・サリバンがヘレンに対していかに愛情をもって接したか、ヘレンの成長に嬉々として付き合っていたかということに、心を奪われたからです。

 私の中では、獣のようだったヘレンと対峙し頑として譲らなかった強く厳しいサリバン先生、という部分だけが肥大していたようです。

 暖かく厳しく、愛情豊かで嬉々として教育に励む若き教師、それだけで十分に理想的な教師ですが、私の周りにだって、そんな先生はいくらでもいる、そんな気もしています。



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