2009/1/30

何のために教えるのか  教育・学校・教師


 「何のために勉強するのか」という子どもたちの問いかけにきちんと答え、それを子どもたちが納得すればきっと勉強するようになる、私たちにはそうした思い込みがあります。また、それにきちんと答えていない自分たちに、ある種の後ろめたさを感じたりもしています。

 しかし、福沢諭吉が「学問ノススメ」を書いた時代、あるいは「いい高校から、いい大学に、そしていい企業に勤めれば幸せになれる」と言われた私たちの子ども時代(当時、豊かさは幸せの必要条件でした)とは異なり、すべての児童生徒が納得するような「勉強する理由」は、なかなか見出すことができません。しかし翻って、子どもたちは「何のために勉強するのか」を理解しない限り、勉強しなくていいのでしょうか?

 その問いに答えのあるなしに関わらず、子どもは勉強しなければならないと、私たちは感じています。だとしたら「何のために勉強するのか」の答え探しよりも、他にすべきことがあるはずです。

 問い返すべきは「なぜ私たちは教えなければならないのか」ということなのかもしれません。
 親が子に躾をしたがるのはなぜなのか、
 商家で息子に商売を教えたがるのはなぜか、
 そして私たちが道徳や算数や国語の授業で、子どもたちにさまざまなことを教えたくてしょうがない(子どもたちに学んでほしくて仕方ない)のはなぜか、
 という問いです。


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2009/1/29

怒り続ける  教育・学校・教師


 ここしばらく学校で怒鳴ることが多くなっています。原因は分かっています。年が明けてから、私自身が毎日のことを少々サボっていたからです。丁寧な指導をしていれば、そんなに怒ることもなかったはずです。

 さて、そう言いながらも、ほんとうはさほど反省していない部分もあります。と言うのは、校内に一人くらい怒鳴っている人間がいないと、何となくバランスが悪いからです。

 以前、養護教諭の先生を講師にした講演会で「学校で不良少年たちに一番好かれている先生は、学校で一番怖いと言われている先生です」という話を聞いたことがあります。

 また、1970年前後の「荒れた学校」を建て直したのは体育会系の先生たちだと言われ、まるで暴力で封じ込めたかのように信じられていますが、この人たちが勝利したのは、結局、子どもや問題から逃げなかったからです(もちろんそこには、体力勝負になっても勝てるといった具体的自信も背景にはあったはずですが)。

 自分が悪いことをしたとき、愛情があれば怒るはずだと、子どもたちは知っています。1・2年生の子には分からなくても、いつか分かる日が来ます。逆に、怒るべきときに怒らなかった人は、結局、自分を見捨てる人間だということもバレます。

 人間は自分を愛し、守ってくれる人だけを信頼するのです。

 叱ったとき素直な反応がないと私たちはイライラしますし、何度叱っても良くならないと半ば投げ出したくもなります。いやな顔をされれば、面倒くさくもなります。
 しかしそれらすべてのとき、子どもが「この人はほんとうにオレのことを考えてくれる人なのか」と、試しているのだと思うのです。

 だから私はめげませんし、怒るのをやめません。

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2009/1/28

『こんなのいかが? 教師の整理術H』〜筆入れの中身〜   教育・学校・教師

 そこまで立ち入って聞く機会がないので調べたことはありませんが、先生方は筆入れの中に、何を入れています?
 15年も前に人からもらった安いビニル製の筆箱の中に、私はこんなものを入れています。

クリックすると元のサイズで表示します(左から)
 朱肉のいらない印鑑、スティック糊、ホワイト修正液、印鑑のプラケースに入れた付箋紙、シャープペンシル、黄色のマーカー、赤と黒のボールペン、ガチャック(小)(書類留め)、カッターナイフ、消しゴム、はさみ、指サック、そして紐で筆入れにつけられたUSBメモリ、以上です。

 この中でちょっと自慢なのが印鑑のプラ・ケースに入れた付箋紙。筆入れの中でいつも汚れてバラバラになってしまっていた付箋紙を、こんなふうにしたらきれいなままに使えるようになりました。

 もうひとつは、指サック。私のように枯れ切った人間には絶対必要で、会議の際のプリントの帳合で、人に迷惑をかけずに済みます。これでステープラーが入ればほぼ完璧ですが、小型のものをわざわざ買わずとも、ガチャックで代用できますので困りません。

 困るのは、たとえば机の近辺からスティック糊が見つからず、仕方なく筆入れのものを使って、戻し忘れることです。出先で、当然あると思っていたものが入っていないと本当にがっかりします。

 しかしそれは躾けの問題ですね。


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2009/1/27

モーツァルト  教育・学校・教師


 今日、1月27日はモーツアルトの誕生日だそうです。

 この早熟な天才ぶりは、5歳で最初の作曲をし、8歳で交響曲1番・2番をつくり、11歳でオペラの作曲を行ったと言うだけでも十分に知れます。

 13歳でイタリアに旅行したときは、ローマのシスティナ公会堂で、一部9声で歌われる門外不出の楽曲を聞き、宿に帰ってすべてを楽譜に落としたといいます。
映画「アマデウス」では、非常に誇張され表現されていましたが、その性格も破天荒で、口は軽い上に下品、言って良いことと悪いことの区別もわきまえず、当時、ウィーンで有数の給与を得ていたにもかかわらず瞬く間に使ってしまい、年中、貧乏をしているような、そんな有様でした。

 小林秀雄の「モォツァルト」を読むと、苦悩する天才、時代の最先端に行き着いてしまった芸術家の苦渋といった感じで非常に重苦しくなりますが、なかなかどうしてかなり軽い男です。

 私は読んだことはないのですが、モーツアルトの手紙は最大5ヶ国語で書かれ、脈絡のない海や大陸の名前を書き込んだり、無関係な物語が始まったり、あるいは下品な言葉が次々と飛び出したりと、相当にハチャメチャなものだといいます。

 サヴァンと呼ばれる人々がいます。知的障害や自閉症傾向のある者のうち、ごくわずか、ごく狭い分野に限って、常人にはおよびもつかないような能力を発揮する人々のことです。

 モーツアルトをそうした概念でとらえる人もいます。

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2009/1/26

頑張らせよう!  教育・学校・教師


 ミュンヘン・オリンピック金メダリスト、男子バレーボールの島岡健治(新日鉄)に会ったことがあります。世の中に高身長の人はけっこういますから島岡の背の高さには驚きませんでしたが、手の大きさにはびっくりさせられました。身長差は20cmほどなのに、手は私の倍ほどの大きさだったのです。あれでバレーボールを握っても、私がハンドボールを握る程度にしか見えないはずです。

 ソウルオリンピック競泳100m背泳ぎの金メダリスト鈴木大地は、手の指の間に水かきがありました。バルセロナオリンピックの競泳女子200m平泳ぎ、若干14歳の金メダリスト岩崎恭子は、小学校4年生のときの全校マラソンで5・6年生の先輩を差し置いて1位になったことがあるそうです。

 それはそうでしょう。「運動神経と体格に恵まれた努力家」なんて世界中に掃いて捨てるほどいます(1万人に一人の逸材が60万人もいるのが世界です)。それ以外の要素がなければ頂点には立てません。

 「ハリー・ポッター」シリーズのJ・K・ローリングは、おそらくストーリーのアイデアに苦労したことはありません。彼女が毎年苦労していたのは、あふれて留まらないアイデアの整合性をどうつけるか、だけです(それはまず間違いありません)。発明家のトーマス・エジソンは「天才とは99%の努力と1%のインスピレーションである」という有名な言葉を残しましたが、これは「一流の人間なら努力なんて誰でもする。天才の天才たる所以は1%のインスピレーションであって、それがなければ少なくとも天才ではない」という意味です。

 超のつくほどの一流の人たちは、単なる努力家以上の何かを持った人たちです。私達凡人とは決定的に何かが違います。しかしその前の段階、天分が問われる直前までは、誰でも近づけるはずです。

 子どもたち、頑張らせましょう!

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2009/1/23

共にがんばろう  教育・学校・教師


 わがままで身勝手、自国の利益にならないと一銭も出さないのに儲け仕事となるとあたりを憚らない、そのくせ偉そうに説教をたれたり正義をぶち上げたりする――アメリカは私にとって、そういう印象の国です。しかし一昨日のオバマ大統領就任演説を聴いていたりすると、やはりトップがこんなふうに、希望や団結を語る国はうらやましいなと思ったりもします。

 中でも、マスコミで取り上げられた以下の部分は、甘いことばかり言う政治家とは異なり、ともにがんばろうとする若い指導者の、気概を感じます。

 いま求められているのは、新たな責任の時代だ。困難を乗り越えるために全力を尽くすことが最も精神を満たし、人格を鍛えるのだと信じるすべての米国人が、不承不承ではなく、むしろ喜びをもって進んで責務を果たすことだ。

 私は政治家ではなく一介の教員ですから、語りかける相手はせいぜいが児童か保護者です。しかしそういう児童や保護者に対して、夢や希望を語り、辛苦を共にすることを誓い、強い意志を示す、そんなときがあっていいはずだ、いや、なければならないとそんなふうに思いました。

 子どもたちよ、お父さんお母さんたちよ、この苦難の先にきっとすばらしいことがある。そのためにも一緒にがんばろうよ、ということです。


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