2008/8/29

車窓から  教育・学校・教師


 久しぶりに電車で出勤して来ました。車窓から風景を見ていると、7時前の町を歩いている人は本当に稀です。登校する高校生、散歩するおじさん、家の前の掃き掃除をする人・・・。一瞬見ただけで二度と会わず、見たことも忘れてしまうような人々ですが、その一人ひとりが、小説になりそうなネタの一つや二つはもっている人たちです。そう考えるとなんだかとても不思議な気がしました。

 だからどうというわけではありませんが、何となく考えさせられる朝でした。



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2008/8/28

強い子を育てたい  教育・学校・教師


 昨日ある先生と話しいて思ったのは、子どものトラブルのかなりの量は、結局、強い子を育てることで回避されるのではないかということです。イジメや喧嘩のほとんどは、一種の被害者意識によって起こるからです。

 普通の子どもたちは正常な道徳観や正義をもって育ってきています。その道徳や正義の目が曇り、誰かに意地悪をしたり喧嘩をしてもいいと思うのは、「その子のためにいやな思いをした」「その子のために何かを背負わされた」「その子のせいで望まない結果を引き受けざるを得なかった」という気持ちがあるからです。

 何かあったとき、それを他人のせいにするようでは一人前ではありません。したがって、何かあるごとに、私たちは「一体誰が悪いんだ」と、常に本人に責任を突きつけていかねばならないはずです。

 野球解説者の江川卓は高校時代「怪物」と呼ばれるようなピッチャーでしたが、ノーヒットに抑えながら内野手のエラーで1点取られて負けたことがあります。自宅に帰ってふてくされていたところ、お母さんに「味方にエラーをさせるようなゴロを打たれるお前のほうが悪い」と叱られたそうです。一人前のピッチャーなら、味方のエラーも織り込んでおかねばならないということかもしれません。

 そういうことです。





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2008/8/27

朝青龍の話  教育・学校・教師


 今日から大相撲が初のモンゴル巡業だとかで、朝青龍が張り切っています。ところで、あの朝青龍の解離性障害はどうなったのでしょう?

 私はこれについて、最近「心の傷は言ったもん勝ち」(中島聡著 新潮新書)という本を読みました。「心に傷を受けた」と宣言したら、あとは何でも可能。詳しい検証もないまま懲罰を回避したり、一方的に相手を加害者と断罪できる、そうした現在の日本のあり方を問題とした本です。

 学級内の権力争いに負けても「いじめられた、心の傷を受けた」と言えば一発逆転で相手を窮地に追い込むことができる。セクハラも「あの時は我慢して笑っていただけ、本当は死ぬほどいやだった」と言えば、後出しジャンケンみたいなやりかたでも通ってしまう(そのときに言えよ!)。「確かにウチの子も悪いけど、あんな叱り方では心の傷になって残ってしまうでしょ」そういう言い方で、悪事自体が相殺されてしまう・・・。

 確かに、困難な心の病気を抱えている人はたくさんいますし、その中には「がんばれ!」と言ってはいけない人も大勢います。しかしだからといって「がんばれ!」と言わなければならない人だって一方にたくさんいるのです。同様に、「イジメは加害者が100%悪い、被害者には何の落ち度もない」といった言い方にはやはり問題があるので、100対0の人間関係など、そうあるものではありません(そのことはイジメのもうひとつの定理「イジメでは一晩の内に、イジメる側とイジメられる側が入れ替わってしまう」を考えれば、状況がそう単純でないことはすぐに分かります)。
 
 「心の傷は言ったもん勝ち」
 内容自体はさほど新鮮ではありませんが、被害者もまた考えなければならないということが、書籍になって世に出回る時代になった、そういう意味ではとても新鮮でした。


 ところで、電車の中でやってもいないのに「この人、痴漢です」と名指しされたとき、どうするのが正しい態度でしょう?

 ネットによると、「自分の身分を明らかにして連絡先を書き渡し、その場から立ち去る」だそうです。駅員のところへ行ってはいけません。駅員はマニュアル通り警察に連絡し、そのまま現行犯として逮捕されてしまうからです。そうなると何年も裁判に縛られ、しかも「やらなかった」ことをこちらが証明しなくてはならなくなります。その難しさは、映画『それでもボクはやってない』に見られるとおりです。

 しかしその場から立ち去ってしまえば、今度は警察が十分な証拠をそろえて逮捕状を取らなくてはなりません。「やったことの証明」は「やらなかったことの証明」と同じように難しいから、なかなか逮捕にはいたりません。正直な身分と連絡先を残すのは、「逃げた=やった」という推定を回避するためで、決して嘘をついてはいけません。

 こう書きながら、私は本当にむなしい気持ちになります。
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2008/8/26

オムツの話  教育・学校・教師


 保育参観、トレパンという名の、簡易紙オムツをはいている子があまりにも多いのにびっくりしました。そんな子が年少クラスに2〜3人もいると、なんだかやり切れない気持ちになります。障害のあるお子さんなら別ですが、定型発達の子どもが3歳を過ぎてもトイレットトレーニングが済んでいないのは、絶望的な話です。

 昔は、そんな子はいませんでした。
 何しろ昔の布オムツといったら一日に20枚近くも必要で、その洗濯は大変なものでした。子どもにしても1回でビショビショになってしまう布オムツなんて最低で、一日も早く捨ててしまいたいものだったに違いありません。つまりオムツを外すことに関して、母子ともに強烈なモチベーションがあったのです。

 しかし今は違います。紙オムツは布よりずっと快適で、性能の上昇とともに、どんどん安価になってきています。何しろ8時間分のオシッコを全部吸収してしまうというのですから、その気になれば日に3枚で足りるのです。しかしそれでいい訳がありません。


 オムツを外すにはひとつの確立された方法があります。それは親が子どもの排泄のパターンを知るところから始まります。排泄しやすい時刻を知り、それに合わせて子どもをオマルに座らせるのです。そしてその上で、励まし、元気づけ、がんばらせます。

 うまく排泄ができたら、限りなく大げさに喜び、オマルで排泄できたことを誉めます。大げさであればあるほど次の段階は簡単になります。それによって、オマルに座ると排泄する、という生理的な習慣づけができるからです。

 また、そうしたことを何度か繰り返すと、今度は子どもの方からオマルにまたがり排泄しようとします。排泄のためではなく、親を喜ばせ、誉められるためです。

 こうして「親に誉められる」という高い価値のために、オマルに座るという面倒を我慢できる子どもが誕生します。

 しかし本当に大切なのは、
 こうしたトイレットトレーニングを通じて、親が子どもの躾け方を覚えるということです。
 @子どもをよく観察して、その生活パターンを知る。
 A生活パターンに合わせて、無理のないレベルで行動を強制する、がんばらせる。
 Bできたら誉める、喜ぶ、限りなく大げさに喜び誉める。
 Cそれを繰り返す。


 3歳にもなってオムツが取れていない子たち、この子とその保護者は最初の3年間に学ぶべきことを学んでいない可能性があります。
 だから絶望的なのです。



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