2008/3/19



年度末休業のため、しばらくお休みします。

  気まぐれに書くかもしれませんが。
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2008/3/18



 子どもたちは別れを惜しんだり思い出に耽ったり、少し涙ぐんだりはしゃいだりして卒業して行きますが、私たちはもっと冷静にいられます。
 この子たちの行く末は昔ほど単純ではなく、立ち向かうにはあまりにも弱いことを知っているからです。

 本当はもっと力をつけてあげたかったのに、今や学校は鍛えるという機能をずいぶんと失ってしまいました。優しい言葉の魔術だけでは、子どもを育てるには十分ではないのです。

 しかし愚痴を言っても始まりません。十分に力をつけられなかったことを悔いながら、けれどいつでもキミたちのことは気にしているよ、とサインを送りながら、あの子たちを見送りましょう。

 
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2008/3/17



 いろいろありましたが一年間が終わります。その最後の日に、子どもたちに何を言ってあげましょう?

 私はこんなふうに言いたいと思います。

「いろいろあったが、ありがとう。何やかや言っても、結局、一年間楽しかったよ。キミたちのおかげだ。
 来年、またキミたちの担任でいられたら、また楽しくやろう。そうでなかったら、キミたちとの思い出を胸に、新しい子どもたちと一緒に、私もがんばる。キミたちもがんばれ。

 私も含めたこのクラスは今日で終わりだ。この一年間の楽しかったことだけを心に残し、嫌なことはすべて忘れよう。恨みは今日を限りに忘れ、互いに許し合おう。3月31日を境に生まれ変わろう。
 そして新しい学年を、新しい気持ちで迎えるのだ」

皆様

 一年間、ありがとうございました。




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2008/3/14

地獄からも遠ざけられる人々  教育・学校・教師


 有名なダンテの「神曲」は百章からなる物語で、三十三章の「地獄編」、三十三章の「煉獄編」、そして三十三章の「天国編」が続きます。

 三十三の三倍ですから、一章足りなくなるのですが、それは天国からも煉獄からも、地獄からも遠ざけられた人々のための章に当たります。

 彼らは神と悪魔の戦いの日、どちらにも味方しなかったために地獄からも遠ざけられ、地獄門の前で、目を潰され、永遠にさまよう人たちです。
 地獄に行けば、そこに天国へのチャンスも生まれます。しかし地獄門の前の人々には、いささかの希望もないのです。

 仏教の世界にも、地獄から遠ざけられた者がいます。それは子どもです。
 たとえ病気であっても、子どもが子どものまま死ぬというのは大変な親不孝ですから、三途の川も渡れません。

 子どもたちは川のこちら側の「賽の河原」で、鬼に急き立てられ、石の山積みを作らされるのです。
「ひとつ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは西を見て・・・」 祈りながら石の山を築くのですが、夕方になると鬼たちに壊されてしまい、翌朝ふたたび最初からやり直しです。
「ひとつ積んでは父のため、二つ積んでは母のため・・・」 子どもは、子どもである限りは死んではいけない、という教えです。
 


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2008/3/13



 子どもは純粋だから決してウソはつかないと本気で信じている人がいますが、そんなことはありません。

 世の中、まったくウソをつかなくて済むのは皇帝か王様だけであって、弱い人間は必ずウソをつく。かく言う私も妻の前ではウソをつく。子どもたちも弱者である以上、つかねばならないときは必ずウソをつく、そういうものです。

 そうならないようにするためには、まずウソをつかなければならない状況を作らないよう、細かく配慮してやること。

 そして、ついたウソは必ず暴く。暴けないまでも、「次にウソをついたら絶対にバレるに違いない」といった恐怖が埋め込まれるところまで、追い詰めておくことです。

 決して中途半端で終わらせてはいけません。

 自分の大切な教え子を、ウソつきになんかにしたくはありませんからね。


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2008/3/12

相殺の論理  教育・学校・教師


 だいぶ前の話ですが、清掃の時間に低学年の教室の前を通りかかったら、ずいぶんとふざけて遊んでいる男子がいて、思わず怒鳴りあげたことがあります。その勢いが余って、その子の名をつい呼び捨てにしてしまったところ、周囲にいた女の子たちに、いっせいに「あ、呼び捨てにした~」と非難されてしまいました。清掃をサボって遊んでいた男の子の罪と、呼び捨てにした私の罪が、一瞬にして相殺された瞬間でした。

 先日、校長室に叱られにきた高学年の男の子が、教室へ帰って書いた反省文に「(担任の)先生に悪いことがあったら言いに行っていいですか?」書き込んだことを知りました。この子は、反省はしましたが同時に、自分が受けた扱いは担任も受けるべきだという激しい公平への希求を文に認めたのです。将来チャンスがあったら、担任の罪と自分の罪を相殺しようというのです。


 ここ10年ほどの間に非常に増えてきたのは「確かに悪いことはしたが、その怒り方は不適切で問題だ」というものです。主として保護者から寄せられます。
「確かにウチの子も悪いかもしれませんが、そんな言い方をすれば子どもは傷つくでしょ? その傷が一生残ったらどう責任を取ってくれるのですか?」といった類のものです。

 もちろん体罰なんかすれば、その瞬間にその子の罪は消え、教師は処罰されます。教委の処罰を受けるとともにマスコミから叩かれ、社会的にも葬られます(もちろん、単に発したその子の罪は一切問われません)。そして言葉による“心罰”もしばしば同じ扱いを受けます。

 とにかく、教師は(親は別のようです)子どもの心を小指の先ほども傷つけてはいけないという考え方が、今日主流になりつつあります。
 教員は当然臆病になり、できるだけ子どもが動揺しない言い方(!?)で子どもを叱ることになります。

 かくして学校は子どもを鍛えるシステムを失い、次第に福祉施設もしくは乳児院となっていくのです。




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