2007/11/30
恐い親、厳しい親 教育・学校・教師
教員としての先輩からいただいたアドバイスの中で、もっとも役立った言葉の一つは、
「あのウチの父親は、恐いけれど厳しくありませんから・・・」というものでした。
そしてそういう目で世の中の父親を見ていると、恐い父親はそこそこにいますが、厳しい父親はほとんどいないことが分かってきます。
「ウチのお父さんはとても厳しくて・・・」とお母さんが言うような父親は、たいてい暴力的な「恐い父親」であって、厳しかった例などほとんどないのです。
例えば「明日から毎日3時間ずつ勉強しろ」と叫んだあと、厳しい父親なら翌日から必ず3時間の勉強につきあいます。つきあわないまでも、3時間やったかどうか必ずチェックし、できていなければやらせます。それが「厳しい父親」のやりかたです。チェックして飽きることがありません。きっと、自分に対してはさらに厳しいのでしょう。
ところが「恐い父親」はそんなことはしません。結局、一月ほど子どもをほったらかしにしておいて、ある日やっていないことに気づき「あれほど『やれ』と言ったじゃないか!」と怒鳴るのが関の山です。
息子からすれば30日間我慢して勉強するより、1〜2時間怒られてる方が絶対楽です。だから、何度やってもうまくいきません。
怒鳴ってもダメだから暴力に頼りますが、暴力だって一ヶ月に一回くらいですからこれも効きません。効かないとなるとさらに強い暴力が加えられ、結局はエスカレートさせるしかなくなります。
そんなふうに怒鳴りまくって暴力をふるう「恐い親」はけっこういるのですが、毎日チェックし続ける「厳しい親」はめったにいないのです。
本校にもけっこう厳しい先生がたくさんおられますが、その方たちはたいていいつもニコニコしておられます。その意味では「怖い先生」でもあります。

2007/11/29
『今の自分』をかわいがるあまりに、『未来の自分』を売り渡してはいけない 教育・学校・教師
昔生徒の喫煙に関して指導をした際、ある母親がこんなことを言いました。
「でも、私どもとしても、子どもに強く言えないんです。夫も、私自身もタバコを吸いますし、家ではお祖父ちゃんも吸ってますので・・・」
それは違うと、私は思いました。
タバコは、(一日に吸う本数)×(年数)が400を越えると肺がんの危険域に入ります。つまり18歳から一日一箱ずつ吸うと38歳で、危険域に入ることになります。
38歳と言えばどういう年齢でしょう?
会社では重要な地位と仕事を与えられ、バリバリ働いている時期です。親としては小学生と幼稚園児をもち、家庭で一番必要とされる時期です。その時期にがんで倒れる可能性が飛躍的に高まるのです。
親としてそんなことが許せるでしょうか。我が子が一番必要とされ活躍できる時期に、すべてが絶たれる・・・我が子の喫煙を認めるということは、そういう未来を受け入れるということです。子どもの喫煙を許す親は、愛情のない親だといわれてもしかたありません。
さて、これを思い出したのは、昨日、給食にあれこれ言って残したがる子どもたちとつき合わされたからです。私は許しませんでした。
子どもたちは、放っておくといくらでも給食を残します。あれだけ栄養のバランスを考えて作った給食を、好き嫌いで残せばバランスは大きく崩れます。
「そんなことをすれば、骨粗鬆症になるよ」とか「将来病気になるよ」とか、あるいは「髪がぱさぱさになるよ」とか言ってもダメです。子どもたちは「今の自分」をかわいがるあまりに、「未来の自分」を平気で犠牲にできるからです。
それを止めてやれるのは私たちだけですし、やらないとしたら、それは愛情のないことです。
私はそう思います。

2007/11/28
100点でなければいけない 教育・学校・教師
今日は避難訓練があります。
避難訓練というと、よくできたときなどは、
「もし万が一本当に火事があっても、こんなふうにきちんとできるといいですね」
と言ったりしますが、私はそうは思いません。
学校が燃え、火の粉が飛び、友だちの髪がチリチリと燃える中を、子どもたちが全員、整然と移動していくとしたら、それは異様です。
実際の火事となれば、練習の3割引、70%程度のできだったら上々というところでしょう。
100点満点の訓練のできる者だったらその70%は70点。これだったら一人のけが人も出さずに避難を終えることができるでしょう。
しかし練習が50点だったら、その70%はわずか35点です。35点の避難で、なにができますか? 何人に怪我をさせたら、避難終了となるのでしょう? 一人も死なせずに済んだら、喜ばなければならないような情けない点数です。
ですから訓練は100点でなくてはいけないのです。全員が何とか生き延びられるための、訓練の最低点、それが100点なのです。
私は、そんなふうに子どもに話します。

2007/11/27
教職という職人の世界 教育・学校・教師
教職というのはいわば職人芸ですから、年季を積めばそれだけよくなるという部分が、かなりあります。本物の職人がそうであるように、日々精進し、先輩の技を見習い、盗み、失敗を繰り返しながらも同じ過ちは犯さないよう心がけ、努力を重ねれば、いつか一端の教員になれるはずのものです。
ただしその成長に早い遅いはありますし、一人の人間の中にも、とんとん拍子にいく時期もあれば停滞するときもあります。
困ったことにどの世界にも天才というものはいて、人が30年かかって到達した高みにあっという間に近づいてしまう人もいます。そして(少なくとも躾け面では)最初から一流として教壇に立っている人もいます。本当にイヤな人たちです。
時間のすべてを芸にささげることのできる人もいれば、別なところで苦労が絶えず、それに専心できない人もいます。
一個の大人としては問題を抱えていても職人として一流という人もいれば、なんともいい人なのに、職人としてうまくいかない人もいます。
ごく少数ながら、まったく不向きな人がいます。別な場所なら活躍できても、この場所ではダメな人もいるのです。
しかし職人芸ですから、日々努力し精進すれば、基本的には報われる、そういう世界だと私は思っています。

2007/11/26
世界が変ったとき 教育・学校・教師
こちらでは、うまく説明できないのですが、しつけというものが血のなかに流れていて、例外なく外にあらわれてくるのです。日本の子供が、怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆくのは、見ていてほんとうに気持ちのよいものです。彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです。そして子供のちょっとした好き嫌いは、大人の好き嫌いに劣らず重要視されます。じっさい、ものごころがつくかつかぬかのうちに、日本の子供は名誉、親切、孝行、そして何よりも愛国心といった原則を、真面目かつおごそかに繰り返して教えられます。我が英国の小学生ならば、小馬鹿にして笑いころげるところでしょうが」
これは英国外交官婦人として日本を訪れていたメアリー・フレイザーという人が、1891年に本国に送った手紙の一節です。
しかし「怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも・・・」というのは、たぶんメアリー・フレイザーの目の届く範囲では、ということで、日本の子どもだって陰ではたくさん「怒鳴られたり、小言を聞かされたり」していたはずです。そうでなければ躾なんかできません。
昔は、外国の方のおられるような場はたいてい「公」の場面ですし、公の場に出るときは、子どもは子どもなりに、年齢にふさわしい躾ができあがっていなければなりませんから、そんな風に見えたのでしょう。「公」の場でも躾をしていなければならないようでは、日本人として恥です。
さて、今、映画館でやっている「ALWAYS 続・三丁目の夕日」は昭和34年が舞台ですが、上の文にあるような風景は、そのころには残っていたはずです。
昨日、11月25日は三島由紀夫の37回目の命日でした。三島由紀夫の亡くなったのは昭和45年(1970)で、三丁目の夕日から10年余りのちということになりますが、その時期にも、似たような様子はありました。
世界の変化は、わずかここ20〜30年のことだと、私は思っています。

2007/11/22
明日は・・・ 歴史・歳時・記念日
明日は勤労感謝の日です。
『国民の祝日に関する法律』(祝日法:1948年公布・施行)では、勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあうことを趣旨としているそうです。
子どもたちには「お父さん、お母さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、その他働くすべての人に感謝する日なんだよ」と教えて、帰してあげてください。「明日は休みだイェーイ!」ではもったいないです。
この際ですから、おうちの人に「働くって、楽しい?」とインタビューさせてみるといいのかもしれません。改めてきちんと聞かれれば、それなりの答えを返してくれるはずです。
子どもでいることも悪くありませんが、大人になることも捨てたものではない、そんなふうに思える子どもに育ってくれるといいのですが・・・。
注:勤労感謝の日
戦前の新嘗祭(にいなめさい; しんじょうさい)の日付をそのまま「勤労感謝の日」としたものです。新嘗祭というのは、その年の収穫を神に感謝する宮中の儀式で、1872年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていました。
1873年に太陽暦が導入されたましたが、そのままあわせると新嘗祭が翌年1月になってしまい、それでは都合が悪いということで、新暦11月の2回目の卯の日に行うこととしました。その第一回が1873年11月23日だったのです。
翌1874年の11月2回目の卯の日は23日ではありませんでしたが、なぜか前年と同じ23日に新嘗祭が行われ、以後ずっと11月23日に固定されたのだそうです。
