2007/8/31

子どもは階段を上る  教育・学校・教師


 私はダメでしたが、英会話の堪能な人に聞くと、日常会話のリスニングは「ある日突然、、できるようになる」のだそうです。「アラ、私、分かるじゃん」と、そんな感じらしいのです。

 長年付き合ってくると分かるのですが、子どもの成長は身長がそうであるような緩やかな上昇の流れではありません。それは言わば不規則な階段みたいなもので、長い(時には短い)停滞と大きな飛躍の繰り返しです。 

 たとえば乳児の時期、子がいつまでも寝返りを打たないので「ウチの子は遅いのかなあ」と思っていると、ある日突然できるようになる。できるようになって二度と失敗しないようになる、そういう経験は日常茶飯です。ハイハイの時期があまりに長いとやはり障害でもあるのかと心配になりますが、「ある日突然」立って歩くようになり、二度ともとには戻りません。ハイハイの方が絶対早くて便利なはずなのに、不便な二足歩行を獲得すると二度と手放さない、それが人間の不思議です。

 学校でも、逆上がりや跳び箱、走り高跳びといった競技で、こうした現象が鮮やかに見られます。私たちは、子どもが2〜3回逆上がりができるようになったのを見ると、それで指導が終わったと感じます。それは基本的に二度と「できない子」に戻ることはないと、経験的に知っているからです。

 頑張っても頑張っても成績の上がらない子、何度挑戦しても記録の出せない子、あるいはそうした子を持つ保護者の方には、そうした話をしてあげるといいのかもしれません。

 子どもの成長を願うなら、何度やってもうまく行かない停滞の時期に、それでもなお頑張れるような子にしておかないと損です。逆に言えば、そう時期の子をうまく励ますのが優秀な親であり教師なのです。
 ただし、言うまでもなく間違ったやり方を果てしなく繰り返しても、それは決して飛躍にはつながりません。そこは教師の腕の見せ所です。

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2007/8/30

昨日の・・   知識

 月の問題
 太陽は夏高く、冬低い、これは誰でも知っていますが、月はどうでしょう?

 答えは「A太陽とは逆で,夏低く,冬高い」でした。

 この問題は、西林克彦 著「間違いだらけの学習論〜なぜ勉強が身につかないか」(新曜社 1994)の中にあったものです。
「教科書は薄くなればなるほど難しいののはぜか」といったことにも実に簡単に答えてくれています。そしてこの問題は「経験が大切といったって、生まれてから何度となく見てるはずの月でさえ、冬と夏とでどちらが高い位置にあるか、私たちは知らないではないか」と、そんなふうに書かれていたものです。

 教授活動に関する教育的な信念には、「身近なものほど興味をもたれやすい」をはじめとして、「身近なものから遠くのものへ」という同心円的な指導理論、「具体的なものから抽象的な認識へ」「実験や観察から理論へ」などなど、たくさんあります。これらは、これをまもれば効果的な学習指導がいつも成立するというものではないのですが、強く信じられていることが多く、効果的で多様な学習指導を模索する障害になっている面も見逃せないように思います。(p.144)

とりあえずすべての学習理論を疑ってみる。なかなか刺激的な本でした。

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2007/8/29

見えないものを見せる  教育・学校・教師

   
 まだ私が運転免許取りたてのころですから、大昔のことです。

 ひとりで丘陵の田園地帯をドライブしていたところ、小さな集落の近くで、一団の子どもたちが遊んでいるのに合いました。道路の真ん中で全員が顔を寄せ、何かを覗き込んでいるのです。クラクションを鳴らして驚かせるのも気が進みませんし、急いでいるわけでもなかったので、20メートルほど近くまでよってから車を停め、子どもたちが気づいて道を空けてくれるのを待ちました。

 と、その時、みんなで見ていたものに何かが起こったらく、子どもたちは「ワッ」と叫ぶとクモの子を散らすように八方に走り去ったのです。もちろんそのうちの一部は私の方に向かってきたのですが、さらにそのうちのひとりはまっすぐ前を向いて、こちらに走って来、そして私の車に・・・ぶつかりました。

 私はびっくりしました。子どもたちはまったく見ていないのです。

 5年生の教室の廊下に(子どもたちがむやみに走らないようにという意味もあるのでしょうか)、机がいくつか置かれ鉢植えの花が飾ってあります。子どもたちは自然に避けて動いていますが、もしかしたら花のあることに気づいていないのかもしれません。気づいても、美しいなあとか可愛いなあといった感慨を持って眺める子はそれほど多くはないでしょう。

「廊下に可愛い花があるね」といった一言があるだけで、改めて、しげしげと花を愛でる子はいるのかもしれません。

 
*ところで、私たちはしっかりものを見ているでしょうか?
 私は見逃してしまいましたが、昨夜は皆既月食でした。そこで問題。
 太陽は夏高く、冬低い、これは誰でも知っていますが、月はどうでしょう?
  @月も太陽と同じで、夏高く、冬低い。
  A太陽とは逆で,夏低く,冬高い。
  B季節に変わりなく、同じコースをたどる。
  C季節に変わりなく、満月は高く、新月周辺(三日月など)は低い
 さて、どれかな?

 

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2007/8/28

見る目の育て方   教育・学校・教師


 織田先生はしばしば、東京まで出かけ、一流の美術展などを見てこられるようです。素養・教養という点で見習いたいところです。

 しかしそうは言っても、ミロだのマチスだのピカソだのといったわけの分からない絵を見に行くのは、なかなかしんどいことです。でも考えてみると、分からないはルノワールやモネだって同じで、ピカソに比べたら「何が描かれているのか」が分かるだけで、美術的な価値や作品としての良さが分かっているわけでもありません。
 それにしてもしかし、同じ人間として、一方にモネやピカソに深く感動できる人がいるのに、この「私」がまったく分からないのは、いかにも悔しいではありませんか。

 そう思って昔、この問題にかなり真剣に取り組んだことがあります。
 その結果、分かったことは二点です。
 @美術史を中心に、若干の勉強をしなければならない。
 Aとにかく一時に、大量の本物を見なければならない。
 特にAは重要で、大型の個人展を見に行くとその絵の価値は一発で分かります。

 「開運 お宝鑑定団」の中島誠之助さんによると、美術鑑定士たちは「良いもの」と「悪いもの」を比較しながら育ってくるのではないのだそうです。骨董商の子どもたちは、小さなときから一流の良いものしか見てきません。そうした「一流に慣れきった目」は、偽物は醜い色合いをもってくっきりと浮かび上がってくるのだそうです。

 学校で道徳を教える価値のひとつはそういうところにあります。
 放っておくと私たちは人々の「一流の生き方」を見過ごしてしまいます。世界の偉人のすばらしい生き方、国内外の市井の人の美しい生き方、友だちの品の良い行い、そうしたものは美術館の壁に絵を並べるように、きちんと整理して子どもの目に届くようにしないと、簡単には見えてこないのです。

 それと同時に、私たち自身が、子どもの前によき作品として(世界的なものではないにしても)、立っていることも必要でしょう。柔らかいものごし、美しい言葉。簡素で清潔な服装、あいさつがきちんとできること、生き方が厳しいこと、等々です。(私はできなかったので、みなさん、がんばってください)
 

 
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2007/8/27

 新しい学期が始まります  教育・学校・教師



 民間の不登校支援の専門家である富田富士也は、子どもたちが気持ちを切り替え、もう一度やり直そうとするチャンスは5回あるといいます。
 3回の新学期、誕生日、そして節分です(節分というのはちょっと意外ですが「豆をまき、邪を払ってやり直し」ということのようです)。

 長い休みの後で、ボーっとしているように見えたり、いやいや学校へ来ている様子の児童もいるかもしれませんが、1学期の自分や人間関係をチャラにして、今日からがんばろうという児童も少なくありません。また、私たちにとっても、今までのことはリセット、今日からやり直すんだよとお互いの気持ちを整えなおすチャンスです。

 朝一番、みんなでいい顔をして新たな出発をしましょう。
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2007/8/26

結局、何がいいのか分からない  親子・家族



【第一話】
 読み聞かせが好きで、二人の子どもにはそれぞれ2歳のころから、小学校の5年生になるまで、毎晩必ず布団の中で本の読み聞かせをしていました。

 その結果、姉の方は大変な読書家になり、最近は東野圭吾に傾倒して、受験勉強の合間にもせっせと読書に励んでいます。

 弟の方は・・・むしろ「本を読んで」とせがむ割合の多かった方ですが、結局父と子のコミュニケーションを楽しむことに主眼があったようで、今では漫画以外ほとんど本は読みません。ただしそんな子ですから、小さなころ私が読んであげなければ「宝島」だの「ロビンソンクルーソー」だの「十五少年漂流記」などには生涯触れることなく終わったと思いますので、やはり読んであげて良かったなあと思っています。


【第二話】
 姉は保育園の年長の時から、弟は小学校に上がった時から、それぞれ6年生を終えるまでピアノを習わせました。
 姉は大変な努力家ですので練習にも熱心に取り組んでいましたが、中学校に入学して運動系の部活との両立ができず、泣く泣くピアノ教室を辞めました。以後、私の知る限り2〜3回はピアノに向かいましたが、あとは弾いている姿を見たことはありません。

 弟の方は、おそらく6年間、ただの一度もピアノを楽しいと思ったことはないはずです。週に一度の教室でしたが、前日は必ず「溜め練習」で何とかカッコウだけを整えて通ったものです。辞めたい気持ちは山ほどでしたが、そういうことを言っても両親ともに取り付く島がないことを知っていたので、我慢していたのです。
 小学校を卒業した翌日、本当に晴れ晴れとした表情で最後のレッスンから戻ってきました。
 それから一年・・・。

 ある日家に帰ると、客間からピアノの音が聞こえてくるのです(子どもたちに使われなくなったピアノは、居間に死蔵されるようになっていました)。不思議に思って見ると、演奏していたのは弟の方でした。
「何となく弾いてみたくなった」
 そう彼は言います。

 しばらくして、弟の方が、
「電子ピアノを部屋に入れてほしい」
と言い出しました。親の勤務の関係で、持ち家を後にして遠くに転勤しなければならなくなった時、必要に迫られて買った電子ピアノがあったのです。それが弟の部屋に入りました。
 そしてそれ以外に、姉が持っていた「ピアノの音から犬の声まで99種類の音が出せるキーボード」というものがあって、それがいつの間にか弟の部屋に入りました。それらを直角に組み合わせ、左手で電子ピアノ、右手でキーボードを弾けるようにしたのです。

 今、下の子(弟)は「アニソン(アニメ・ソング)」に夢中です。繰り返し音楽を聴いてそれを右手に落とし、左手は自分でアレンジして、一朝懸命弾ける曲にしています。

 さて、
 親は子の可能性に期待してさまざまなことに兆戦させ、あるいはお膳立てしたりします。
 しかしそれらはあたる時もあれば外れる時もあります。

 しかし何もしなければ、外れることもない代わりに、あたることももありません。





 
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