2007/5/15

修学旅行  教育・学校・教師


 修学旅行隊、全員無事出発しました。東京地方、今日明日の降水確率は30%以下です。楽しい旅行にしてもらいたいものです。さてそこで、この際だからということで、修学旅行について調べてみました。

 日本における修学旅行は、1882年(明治15年)に栃木県第一中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)の生徒たちが先生に引率され、東京・上野で開かれた「第二回勧業博覧会」を見学したのが最初といわれており、「修学旅行」の言葉は1887年(明治20年)に長野師範学校(現、信州大学)が同様に実施した際使われたのが最初だそうです。明治・大正まではさほど盛んではなかったみたいですが、昭和に入って高等小学校の泊を伴う修学旅行が許可されると、1943年(昭和18年)戦時悪化によって禁止されるまで、全国の学校で盛んに行われたようです。母の話などを聞くと旅行先は伊勢神宮・橿原神宮といった現在ではかなりマイナーな場所ですが、これは「国家神道教育」に通じる神社・仏閣に参拝し、国家意識を高めるといった目的があったからなのかもしれません。
 一応、公式にはそれが修学旅行の発祥ということになりますが、近世日本では成人儀礼として霊山登拝や巡礼などの社寺参詣を行なった地域が多く、そういった事情も修学旅行のルーツとしてあげられるのかもしれません。

 若者は仲間とともに生まれた村を離れ、外の世界を見て回り団結を深めて帰る、そのことによって、次世代の村を担う一人前の大人として成長していった・・・そんなふうに考えると修学旅行の指導にも、いっそうの力が入りますね。



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2007/5/14

目には青葉  歴史・歳時・記念日


「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」江戸中期の俳人山口素堂の句だそうです。
「・・・だそうです」というのは、これほど有名な句なのに長いこと調べもせずに放っておいたのを、今回初めてしっかりみてやろうと検索してみたからです。ちなみに、これが5月の句だと確認したのも今回が初めてです。

 さて、それによると、江戸時代、初物を食べると75日長生きするとの迷信が広がり、特にうるさかった江戸っ子たちはナスでもキュウリでも、何でも初物食いに奔走したらしいのです。中でも初鰹は他の初物の10倍、つまり750日も長生きできるとかで、そこから「女房を 質に入れても 初鰹」ということになったのです。
 しかし、この句を調べる気になったのは別に初鰹を食べたくなったからではありません。今朝、出勤の途中でなんとなく山を見たら、さまざまな緑がくっきりと浮かび上がり始めていたからです。そうです。これからしばらくが、秋の紅葉とともに山が一番複雑な色合いを見せるシーズンなのです。世の中にこんなにたくさんの「緑」があったのか、と感激する毎日です。そしてそれとともに畑にもたくさんの作物が植えられ、田にも水が張られます。

 意識して教えてやらないと、子どもたちはキュウリがいつ植えられるのか、トウモロコシは種から育つのか苗から作るのか、トマトはどんなふうに作られ、小松菜はいつごろまで食べられるのか、そういったこと一切知らずに育ってしまいます(その典型が私ですが)。たくさん子どもに話しかけ、目と耳と鼻で季節感を伝えて行きたいものです。
 

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2007/5/11

9歳・10歳の壁  教育・学校・教師


「9歳・10歳の壁」という言葉を聞いたことがあるかと思います。9歳・10歳までにつけておくべき力があり、それを過ぎるとなかなかつけてあげられない壁があるという意味です。
 これについて最初に気がついたのはろう学校の先生方だといわれています(調べましたら、今から30年以上以前に出された「ろう教育」という雑誌の中で当時の東京教育大学附属聾学校長だった萩原浅五郎という人が使った言葉という説がありました。萩原氏は「9歳レベルの壁」が現場の実態としてあると述べているそうです)。長い経験の中から、9歳以前に耳の不自由になったお子さんは、たとえば「政治」とか「協力」「豊かな社会」といった抽象的な概念についての言語習得が、決定的に遅れることに気がついたのです。「政治」も「協力」も「豊かな社会」も絵や物で示して見せることはできず、大量の言語体験によって獲得するしかないからです。

 9歳・10歳(小学校3・4年生)が特殊な年代だということは、私たちの日常からも確認できます。たとえば図工作品を見ても1・2年生の絵は自由闊達、何でもありの生き生きとした世界ですが、5・6年生の絵は、悪く言えば「へたくそな大人の絵」であって、この年代で画用紙にまず地平線を描き、左の上に太陽を描いて全員こちら向きで跳ね回る子どもを描くようだったら心配しなくてはなりません。その中間に位置する3・4年生の絵は混乱します。1・2年生のような「子どもの絵」は恥ずかしくて描けませんし、5・6年生の「へたくそな大人の絵」にも近づけません。おそらく図工作品にマンガが出るのもこの時期だけでしょう。自分の表現ができないので既成のマンガに頼るのです。
 道徳的にも9歳・10歳は特殊なエポックを形成します。1・2年生は「だって先生が言ったんだモン!」が道徳の基準です。5・6年生になれば自己の中に、親や教師から言われなくても働く道徳律が育っていなければなりません。したがって、その中間に位置する3・4年生は自分の外にも内にも道徳のない、残酷で身勝手な時期です。だからギャングエイジなどといわれます。

 そう考えると、低学年・中学年・高学年では、それぞれ指導の方向や方法が決定に異なってくることを考えなくてはなりません。それはたとえば、5・6年生になったら頭の中で試行して「これをやったら、最悪の場合こうなるから止めておこう」ということができるはずだから、「ボールを投げたら窓ガラスに当たって割れました(だからボールが悪い)」といった言い訳を許してはいけないということです。そして同じことを1・2年生が言えば、それは主観的にはまたくその通りなのだから、体験として覚えさせるように仕向けなければならないのです。
 道徳のない3・4年生こそ道徳観の鍛え時、といった見通しも、そこから生まれます。


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2007/5/10

結局、子どもを踏みとどまらせるもの  教育・学校・教師


 結局、子どもを最後に踏みとどまらせるのは「この親は裏切れない」という想いなのではないのかと、そんな話をある人から聞き、とても感心ました。
 店で万引きをしようとするとき、友だちをいじめようとするとき、あるいは自殺しようとする直前、親の顔が浮かび「この親は裏切れない」と思わせる、それだけ濃い親子関係を結んでいるのか、ということです。

 私だって子どもの頃はそれなりに悪かったり危うかったりしました。しかしそれでも何とか切り抜けてきたのは、そこに何らかの自働制御装置が働いたからに違いありません。それが「この親は裏切れない」という想いだったかどうかわかりません。それは大切な仲間だったり、兄弟だったり、(私はそうではありませんでしたが)もしかしたら先生だったりすることもあるかもしれません。しかし仲間がいない人も兄弟がいない人もいますし、いても期待できるかどうかは不明です。結局、最後に行き着くのは親だけです。

 さまざまな問題の渦中にいる保護者の前では、学校が責任を回避しているみたいでなので言えないことですが、余裕がある状態なら、そんなことも話してみたいと、私は思いました。


 
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2007/5/9

はきものをそろえると(続き)  教育・学校・教師



 これは私の行ったことではなく、先輩の先生から聞いた話です。

 まず、全員で下足箱に行き、「靴をきちんと並べる」ということがどういう状態か確認します。学校によってはいちいち箱の中に線が書いてあるところもありますが、普通はふちに踵を合わせます。その上で、
「さあ、これからは朝学校に来たときや外で遊んだあとは、こんなふうに靴をそろえるんだよ。帰るときは上履きをこんなふうにそろえよう」と、話します。
「でもね、そんなふうにしてもうまくできない人もいるよね。忘れちゃう人もいる」(そして一足、わざとずらして見せます)「友だちの靴がこんなふうになっていたら、どうしたらいい?」
 そう質問すると必ず出てくるのが、
「注意すればいい」です。

そうしたら、
「そうだよね。注意すればいいんだよね。でも、注意しても注意してもうまくできない人がいるよね。そんなときはどうしたらいい?」
 そしてここで待ち構えていた答えが返ってくるのです。
「(靴を)直してあげればいい」
「そうだよね。気がついた人が直してあげればいいんだ」

 それで翌日から下足箱のはきものはきちんとそろうのだそうです(たぶんそうなるでしょう)。もちろんそうした習慣を維持するためには時々確認しあって繰り返しほめたり、「気がついた人」が先生の場合は先生自身が「直して」あげなければなりませんが、スタートがうまくいけばあとは簡単です。

 ここういう話を世間の人にしても、たぶんまったく分かってくれません。中学校の先生だって分からないかもしれません。しかしこうした活動の繰り返しが結局、友だちの欠点や至らなさを認め、少し余計に働いて補っていこうとする子どもをつくりだすのです。そういう子どものたくさんいるクラスでは、いじめだっておきにくいはずです。




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2007/5/8

はきものをそろえると  教育・学校・教師


 昔、中学校の部活の生徒を引き連れて大きな大会に出かけたところ、開会式の祝辞でいきなり「今日、優勝するチームはすでに決まっている」と言われて愕然としたことがあります。
「・・・下足置き場に行ってみれば分かります。強いチーム順に靴がそろっている」
 私は素直な性質ですので開会式の終了とともに下足置き場に行って見ましたが、実際、一番強いと思われた学校の下足は、定規でそろえたみたいにきちんと並べられていました。それに対して私のチームの惨めだったこと・・・。結局、向こうは「予定通り」優勝。私のところは一回戦敗退でした。

 当時、そのチームが跳び抜けて強いということは周知でしたから「優勝チームは決まっている」という祝辞もハッタリだと思っていたのですが、それ以来なんとなく下足箱に目が行くようになり、そういう目で見ていると確かに靴をそろえられるチームやグループ、クラスは底力が違っています。履物のそろっているグループは、心の基盤がそろっているのです。
 それはそうでしょう。30人なら30人の靴が全部そろうということは、日々相当に気を使って意図的にやらないと達成できないことです。30人全員がその気にならないと不可能なのです。
 そこで私は部活でもクラスでもはきものをそろえることに熱中するのですが、やってみると100%達成ということは本当に難しい、99%できていても誰かが必ず忘れるのです。私は相当カリカリして、怒鳴ってばかりいました。ところが、100%達成の方法は、意外に簡単なところにあったのです。

 長野市の円福寺の住職、藤本幸邦さんは福祉の方面でも有名な方ですが、次のような詩を書いておられます。
   はきものをそろえると 心もそろう  心がそろうと はきものもそろう
   ぬぐときに そろえておくと はくときに 心がみだれない
   だれかがみだしておいたら だまって そろえておいてあげよう
   そうすればきっと世界中の人も心もそろうでしょう


 100%達成のカギは「だれかがみだしておいたら だまって そろえておいてあげよう」です。大切なのは「そろえること」ではなく「黙ってそろえておいてあげよう」の方だったのかもしれません。
 
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