2006/10/23

「知行一致」  教育・学校・教師


 6年生の社会科の授業をやらせていただいています。それ自体かなり楽しい時間です。現在、江戸後期の学問の勉強をしているところで、洋書の一部輸入解禁→蘭学の発達、そしてその反動としての国学の勃興といったところをやっています。
 そのふたつの学問を押さえながら、ああそういえば結局江戸時代の中心的学問といったら儒学、中でも朱子学と陽明学だったなと思い出し、その一部にも触れておきました。このふたつの学問は現代にも深く影響を及ぼしているからです。

 朱子学のひとつの柱は「大義名分」です。大義名分は辞書によると「本来は臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指した。今日では転じて、『行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠』を指す事が多い」ということになります。したがって「仁・義・礼・智・信」などが中心的課題となります。また個人の修養が結局社会の秩序に繋がる、といったことも中心的課題ですから、必然的に「全体のために我慢しましょう」ということにもなります。
 朱子学の世界では中身より外見にこだわります。服装を正しなさい、挨拶をしなさい、目上の人には(たとえ尊敬できない人であっても)礼を尽くしなさい・・・そういった考え方は現代にはまったく合いません(現代はなんといっても見える外見より、見えない中身が大切・・・という意味で非常にキリスト教的です)。しかし同様のことは繰り返し言われますし、学校は特に言います。

 陽明学は王陽明によって始められた学派で、一言で言えば「知行一致(やらなかったことは考えなかったも同じ)」が中心的課題です。大塩平八郎は陽明学者ですから自ら反乱を指揮を取らなければ学者としてすたるとでも思ったのでしょう。「言ったら、やれよ」は私が再三子どもたちに言ってきたことですが、これも陽明学の影響みたいなものです(「じゃあ、言わなければやらなくてもいいのか」ということにもなりかねませんが、言わない〈自己の表明しない〉場合は、「自分の言ったとおり」ではなく「教師や親の言うとおり」にやらせられるだけです)。

 いまさら朱子学や陽明学でもなかろうという気もしますが、日本人の伝統の中に深く根付いたものですから、もう一度検討してみるのも良いでしょう。ちなみに、私は、「心の中ではいくらでも馬鹿にして結構だが、表向きは尊敬しているように振舞いなさい。その方がキミたちにも有利です」と、そんな言い方もしばしばしていました。

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