2006/3/7

「飲み会に行こう!」  教育・学校・教師


 土曜日は、ご苦労様でした。
 慰労会にはほとんどの先生方に出ていただき、私としては気持ちが楽でした。先生たちとの懇親ということで保護者から手が差し伸べられたのに、こちらはさっぱり応えない、というような状況だと管理職としてはかなり肩身が狭いのです。
 しかしだからといって、呼ばれる会合のすべてに顔を出していたら先生たちの身も財布も持ちません。私にしてもこのところ週に2〜3回ずつの飲み会に出ていますから、そろそろシンドくなってきています。私自身が勘弁していただくこともありますので、その節は「SuperTもそろそろ身体か財布が疲れてきているのだろう」とお考えの上ご容赦下さい。よろしくお願いします。先生方についても、出席できない時はそれなりの事情があるわけですから、遠慮なくおっしゃってくださって結構です。

 私は若い頃から、PTAの懇親会というのが非常に嫌いでした。まず酒が好きではない、金がもったいない、昔から早寝早起きですので生活のリズムを乱したくない、そもそもがあまり親しくない人との付き合いが重荷だ、とそんなところです。「酒のつくる人間関係は、一夜の酔いと同じように空しい」というではないか、これだけ疲れているのだから早く家に帰してくれることこそ慰労ではないか、金を稼ぎに来ている職場で無用な金を使うのはそもそもが矛盾しているのではないか・・・それらはすべて理にかなったことです。

 教員になればPTAの活動は職務の一部だ、それを任意団体なんだから手当も出せないというのはどういうことだ? 教員組合だって私たちのためにあるはずなのに、なんでこんなに金がかかり、おまけに休日や夜の時間まで奪われるんだ? それも合理です。
 ですから当時の私の考え方は今も間違っていないし、そう考える先生がたくさんいても不思議はありません。しかし、ある時期から、私は少し気持ちを変化させてきています。合理を追求することが、人間をちっとも幸せにしてくれないからです。

 煙草は身体に悪いから子どもたちを受動喫煙の危機から救おう、子どもの命は何よりも大切だから不審者対策は完璧でなければならない、遊具で子どもが傷つくことがあってはならない、子どもを苦しめてはいけないし学力も高めてやらねばならない(だから授業時間は減らし家庭学習も減らし、教師の授業力向上だけで問題を解決すべきだ)等々。

 PTAでの懇親会も組合への参加も、合理を追求していけばやめるにしくはありません。教育の条件整備や研修は県や市がやればいいのです。力のなくなった組合だってなくていい、ということになります。しかしそうしたものがなくなったとき、果たして私たちは幸せになっているのか? そう考えると非常に怪しくなってきます。

 飲み会に参加するのもひとつの方便です。それで失うもの(金や時間)もありますが、そこでしか得られないものもあります。PTAも組合もまたしかりです。
  
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2006/3/4

「最後の参観日」  教育・学校・教師


 映画「三丁目の夕日」が日本アカデミー賞を総ナメにしました。早くからこの映画の価値を認め、実際に見に行った私としては鼻の高いところです。

 さて、この映画の舞台である東京の下町で、子どもたちはしょっちゅうたむろしています。大通りは目の前にあるのに滅多に出ることはなく、半径100m程度の範囲が行動の領域です。その領域の中にすべての子どもがいるわけですから,結構ザワザワとした感じになります。AとBがケンカしたとか、Cが仲間はずれになったとかはしょっちゅうで、子どものケンカに親が出たり、親同士が子どものことでケンカをしたり、「お宅のクソガキがこんなことをした」といった苦情が持ち込まれたり・・・私たちの学級のようにさまざまな問題が発生し、解決されていきます。親たちは生の子どもの様子をずっと見ながら、子育てをしていたのです。別の言い方をすれば、ウチの子どもの家での様子だけでなく、子ども集団の中での子どもの様子も、実によく知っていたということです。ところが今はそれがありません。

 私自身について考えても、子どもの問題を学校から伝えられることはあっても、近所から持ちこまれるということはついに一度もありませんでした。問題のない子たちではありませんが、問題を起こす場がなかったということでしょう。近所で遊んでいませんから、人間関係でどういう子なのかは皆目見当がつきません。また、「今のウチの子」が年齢相応のスキルを身につけているかも分からないのです。

 幸いなことに、私たちは夫婦で教職にありますから、小学校以降はだいたいの目安がつきます。目安がついた上で「この程度だろう」と早くから見切りをつけられてしまうのが教員の子どもの可愛そうなところですが、わけもわからず子育てをしている場合に比べれは、親としてはずっと気持ちが楽です。

 さて、今日は参観日。先生によっては今担任しているクラスを手放すことが明らかな方もおられます(例えば6年生)。最後の参観日、最後の学級懇談ですから、ぜひ、子どもの成長に関わる先生たちの思いを語ってほしいと思います。どんな人間を育てたいか、どんな期待をかけているか、そして今後どんなふうにしていってほしいのか、何を止め何を促していくか、そういったことです。

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2006/3/3

「勉強冷めた日本 米中韓7割超…高校生意識調査」  教育・学校・教師


という記事がありました(読売新聞)。それによると、

 日米中韓の4か国の中で、日本の高校生は学校の成績や進学への関心度が最も低いという実態が1日、文部科学省所管の教育研究機関による意識調査で明らかになった。

 米中韓では「勉強ができる生徒」を志向する傾向が強いのに対し、日本の高校生が最もなりたいと思うのは「クラスの人気者」。もっぱら漫画や携帯電話に関心が向けられているという傾向も表れており、“勉強離れ”が際だつ結果となっている。

 調査は青少年の意識研究などを行う財団法人「日本青少年研究所」と「一ツ橋文芸教育振興会」が昨年秋、日米中韓の高校1〜3年生計約7200人を対象に実施した。

 それによると、
「現在、大事にしていること」(複数回答)として、「成績が良くなること」を挙げたのは、米国74・3%、中国75・8%、韓国73・8%に対し、日本は最下位の33・2%。「希望の大学に入ること」も、米国53・8%、中国76・4%、韓国78・0%に対し、日本はわずか29・3%だった。

 「いい大学に入れるよう頑張りたいか」という問いに、「全くそう思う」と回答した生徒は、中国64・1%、韓国61・2%、米国30・2%で、日本は最下位の25・8%。また、「どんなタイプの生徒になりたいか」を尋ねたところ、米中韓は「勉強がよくできる生徒」が67・4〜83・3%を占めたが、日本は「クラスのみんなに好かれる生徒」が48・4%でトップだった。


 朝日新聞は享楽的で、「人並み」意識が強く、意欲が少ない――。と書いていますが、なんのことはない。日本人は昔とちっとも変わらない。みんながやればやるし、やらなければやらないということだけなのでしょう。

 こんな話があります。
 タイタニック遭難のような状況で、船に男性を残らせるには、どこの人間かによって言い方を変えなければならない。
   イギリス人には「紳士はそうするものです」
   アメリカ人には「ヒーローになれるぞ!」
   イタリア人には「女にモテるぞ!」
   ドイツ人には 「規則に、そうなっています」
そして日本人には、 「みなさん、そうされておられます」


 どこで聞いた話だったっけ(?)
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2006/3/2

「リンゴはなぜ甘いのか?」  知識


 娘がまだ保育園くらいのとき「将来は人や世の中のために役に立つ仕事をするんだよ」という話をしたことがあります。娘はしばらく考えてから「人の役に立たない仕事って、あるの?」と逆に聞き返してきました。これには面食らいました。

「駕籠に乗る人、駕籠担ぐ人、そのまた駕籠をつくるひと」
という言葉があります。世の中にはまったく人の役に立たない仕事なんてないのですよね。

 さて、
「甘いリンゴは人間にとっては役に立つが、リンゴ自体にとってどういう意味があるのか」
 私が若い頃に悩んだ重大なテーマです(モット ホカニハ ナヤミハ ナカッタノカ・・・? )。

 リンゴやナシ・ブドウなど、水はけのよい土地を好む植物は日照りに備えて種子の周辺に水分を蓄えておかなければならない、それが果実です(逆に水の中に育つ稲の種子には水分はまるでない。これを「砂漠には水を持って行け、川には水筒はいらないの法則」と私は呼んでいました)。しかしだからといってその水分が甘いことは、必ずしもリンゴやナシにとっては重要ではないだろう、というのが悩みの核心です。

 知っている人にとってはバカらしいほど簡単なことでも、分からないとなると本当に分からない・・・。

 実はコレ、要するにその甘い実を食べた鳥獣によって種子は遠くに運ばれ、糞という養分の塊とともに地上に置かれる可能性が高い、実の甘いリンゴの方が有利だ、ということなのですね。同じリンゴのなかでも甘い実をつける性質をもったリンゴだけが子孫を多く増やし続け、その結果、甘いリンゴだけが栄えた、ということです。
 そうなると「あんなでかい実を食べる鳥獣って何だ?」ということになりますが、これはもちろん人間のために改良した結果です。自然とは本当によくできているものだなあ、というお話でした。(今日は書くことがなかったので)

 

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2006/3/1

「おいしい生活」  教育・学校・教師


 昨日、学校に戻ったら5学年のお二人が難しい顔をして、目を閉じて、ソッポを向き合っていました。ケンカをしたふうにも見えないので眠っているのかなと思ったら、6年生を送る会で5年生から渡す鉢のラッピングを考えている、とのことでした(お互い、相手が良いアイデアを出すのを待っているふうもありましたが・・・)。
 こんな細かいところにまで、先生方が智恵を絞りがんばっていることを児童は決して知ることはありません。しかしそうしたところにまで真剣に気を回すのが教員の仕事、あるいは教員の性、ということを改めて思いました。

 私の弟はかつて仏教マニアで、寺院回りに余念がなかったり、仏具を集めたりと変な若者でした。その弟が就職してから嘆くのは、それを話せる相手が誰もいない、ということです。役に立つ立たないでで始めたことではないにしろ、まったく役に立たないというのも張り合いのないものだ、その点、兄貴はいいなあ・・・、ということです。

 たしかにその通りで、自分自身が学校で習ったこと、絵を描くこと、リコーダーを吹くこと、毛筆習字ができること逆上がりができること、そういった事がすべて役立つ仕事といったら教員しかありません。そればかりか、映画を見に行っても旅行に出ても、買い物をしながらあれこれ迷っても、それらすべては料理のし次第で道徳や生徒指導の材料になります。

 本当に幸せな仕事ですよね。
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