2006/2/28

「昨日の校長副校長会で」  教育・学校・教師


 昨日の校長副校長会で、下のような詩を紹介されました。先日の皇太子の誕生日会見で、ご自身の教育の基本として紹介されたそうです。

 内容から言うと、大部分は私たちがうすうす承知していることです。しかしこうして整理され提示されると、ずっと分かりやすくなります。おたよりなどで記事に困ったら、使ってみるといいでしょう。

 作者のドロシー・ロー・ノルトはベストセラーとなった「子どもが育つ魔法の言葉」の作者で、この詩も同著の中にあるものです。育児カウンセラーということになっていますが、昨年、なくなられました。



 子ども     ドロシー・ロー・ノルト

 批判ばかりされた 子どもは  非難することを おぼえる
 殴られて大きくなった 子どもは  力にたよることを おぼえる
 笑いものにされた 子どもは  ものを言わずにいることを おぼえる
 皮肉にさらされた 子どもは  鈍い良心の もちぬしとなる

 しかし、激励をうけた 子どもは  自信を おぼえる
 寛容にであった 子どもは  忍耐を おぼえる
 賞賛をうけた 子どもは  評価することを おぼえる
 フェアプレーを経験した 子どもは  公正を おぼえる
 友情を知る 子どもは  親切を おぼえる
 安心を経験した 子どもは  信頼を おぼえる

 可愛がられ 抱きしめられた 子どもは
 世界中の愛情を 感じとることを おぼえる
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2006/2/27

「K地区食育の会」  教育・学校・教師


 土曜日のお昼、白沢里恵子先生や藤原先生、馬場先生と地区センターで開かれたK地区食育の会総会に出席してきました。総会とは言っても、私たちが招かれ時刻には総会自体は終わってしまっていて、食事をご馳走になっただけです。けれどその中でいろいろなお話を伺いました。

 一口にって、真面目で誠実な人たちだなあという印象です。
 K小の子どもたちの口に、新鮮で安全な食材を提供しようと、常に真剣に取り組んでおられるのです。こうした思いがきちんと伝わっていけば、子どもたちの給食に対する思いも変わってくるのではないかと思いました。

 話は変わるみたいですが、私は小学校の教員になったばかりの頃、「生活科」というのが分からなくて困りました。私自身は社会科の教員ですから、その大切な社会科をつぶしてつくった「生活科」で、川遊びや秘密基地づくりなどされては困るのです。
「なんで学校で子どもを遊ばせにゃならんの」
というのが素直な気持ちでした。
ある時、生活科の主事と話している最中にそうした疑問を(もっともっと遠慮勝ちに)話したところ、その主事はこういう言い方で答えてくれました。
「生活科は、やりのこした保育なのです」

 これは非常に分かりやすい説明でした。自然体験や生活体験を疎かにしてきた子どもを、もう一回育てなおそうということです。家庭や地域が行ってきたことを、学校でやらなければならなくなったということです。

 最近、「食育」という言葉が多用されるようになっています。また栄養教諭を増やし、学校の食育を司らせようという方向もあります。これも本来家庭が担ってきたものを学校が背負おうというものなのでしょう。
 K小学校にとって食育の会の意味は今後さらに重くなるでしょう。現在は給食室を介してのつながりだけですが、来年度は児童と食育の会が直接つながる道も探っていきたいと思いました。

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2006/2/24

「同行二人」  教育・学校・教師


 昨日、言うことをまったく聞かなくなったミニ豚を調教しなおし、立派なレース豚に育てなおす、という番組をやっていました。とても勉強になりました。
さて、

同行二人
 四国のお遍路さんの白衣の背中や編み笠には必ず「同行二人(どうぎょうににん)」と書かれています。一人旅であってもお大師様(弘法大師)と一緒という意味です。

 子どもが何らかの事情で悪い方向に向かい如何ともしがたくなったとき、あるいは自分自身の進む方向が思い通り行かず如何ともしがたいとき、私たちは逆転満塁ホームランのようなことを夢に見ます。大平光代さんの場合がそうであったように、何かの強い力が強引に方向を曲げてくれるとか、とんでもない運が転がりこんでくるとか、あるいは突然自分の中にある種の力が生まれてくるとか・・・。
 親や教師について言えば、そこで突然メチャクチャに怒鳴りまくったり、ボコボコに殴ったり、あるいは不登校の子を突然引きずってきて学校に投げ込むとか、コンピュータや携帯を予告もなく取り上げるとか、します。しかしたいていの場合はうまく行きません。
 ゆっくり曲がってきた行き方を直角に曲げてもどすことは、たいていの場合できないのです。
 ではこういうときはどうするかというと、ゆっくり押し戻すしかないのです。私はそれを「同行二人」と言っています。並んで歩き、ゆっくり肩で押し戻していく感じです。

 それにはまず一緒に歩ける関係にならなければなりません。つまり仲良くなるということです。そのためには、なんの指導もせず、一緒に遊ぶ時間を持たなくてはなりません。
 一緒に映画を見に行くこともいいでしょう。スキーに出かけるのもいいことです。しかし帰ってきてから「今日は遊んだんだから勉強しなさい」とは言いません。いつもと同じように、時間になったら「勉強しなさい」と言えばいいだけのことです。そして話のできる関係を築きます。
 仲良くなるために、指導を捨てるというようなことはしてはいけません。そんなことをすれば大人が媚びている、心にもなく甘くなっていると感じるだけです。子どもは、自分が悪い方向に進んでいるとき、それを止めてくれない人なんてちっとも好きではないからです。
 子どもが好ましくない方向を続けようとしたら、少し押し返します。今まで5時間もやっていたゲームをゼロにするなんてことはできません。5時間が4時間になったら当面は十分です。しかしその4時間はあっという間に5時間に戻ってしまいますから、常に押し続ける(注意していて声をかける)必要があります。がんばりましょう。
 私はときどきそんなふうに保護者と話をします。
 大変に辛抱のいることです。しかし曲がりきった子どもを正しい道に戻すには、それしかないのです。


 

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2006/2/23

「卒啄同時(そったくどうじ)」  教育・学校・教師


 ヤクザの女将さんから弁護士になり、最近まで大阪市の助役だった大平光代さんは、6年ほど前「だからあなたも生きぬいて」という本を書きました。ベストセラーにもなりましたから読んだ方も多いと思います。
 私自身は「ヤクザの女房だった私だって弁護士になれたんだから、だからあなたも生きぬいて」と言われても……と、やや鼻白んだ感じでした。それはよほど頭のいい人でないかぎりできないことで、普通は高校入試だっておぼつかない。努力してもできないことはあるのです。しかしだからといってこの本の価値が下がるわけでもありません。

 この中のもっとも興味深い一節は、離婚してクラブホステスをしていた時に、父親のかつての知り合いの(現在は養父となっている)大平浩三郎氏と運命的な再開を果たす場面です。光代さんはこの人の諌めと強い勧めによって更正を決意し、現在の道を歩み始めるのです。今、手元にその本がないので確認できないのですが、この時の浩三郎氏の言葉は、しかしそれほど大したものではありませんでした。誰でも言いそうな、あるいは光代さんなら誰かからすでに何度か言われてきたような、そんな平凡な言葉だったような気がします。ただし、タイミングは絶妙だったのかもしれません。

「卒啄(そったく)」または「卒啄同時」という言葉は,私たちの世界では非常に好まれるものです。もとは禅宗のもので
『ヒナが卵の内から声を発することを卒と言い、親鳥が殻をつついてヒナを助けることを啄と言う。「卒啄同時」とは,いままさに悟りを得ようとしている弟子と,それを導く師家の教えが絶妙に呼応することの喩えで,そこから絶妙の機,得難い好機というような意味にもなる』
と説明されます。求める心に与える心が適切に反応することを言います。大平さんの場合、それが完璧に行われたのでしょう。

「卒啄同時」は私たちにとって非常に大切な概念です。しかし困ったことに、公立学校の子どもたちはしばしば卒を怠ります。あるいはそもそも卵の中で成長を拒否しヌクヌクと眠る道を選んで出て来ようとしない、声を上げない・・・それを何とかしようとするのが私たちですから問題は簡単ではありません。

 私は最近、ある中学生の母親から深刻な相談を受けました(問題が深刻というよりは、母親が深刻)。
 その時「卒啄同時」を思い出したのですが、ややこれとは違う気がしました。そして同じく仏教で使われる言葉「同行二人(どうぎょうににん)」について話しました。
「同行二人」については、改めて書きたいと思います。

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2006/2/22

「不登校を捕まえた」A  教育・学校・教師


 いわゆる「良い子の息切れ型」不登校というのは次のように説明されます。
「親や教師の期待に精一杯応えようとしてきた『良い子』が疲れきってしまい、しばらく休ませてほしい、エネルギーの溜まるのを待ってほしいという訴え、表現する不登校」。

 しかし私はこうしたエネルギー説に賛成できません。たしかに「エネルギー枯れ」といういうのは一部の不登校の子の様子を表現するのはぴったりですが、もう一度元に戻って考えると、そもそも人間がロボットのようにエネルギーで動き、それがしばしば満タンになったりエンプティ表示が出て止まるといった見方は,それ自体が不健康です。
 またエネルギーの充填は休むことによって行われ、充填完了後は自動的にスイッチが入るというのも解せません。人間はそのように単純なものではないはずです。

 私は最近、あるメールマガジンの中に次のような表現を見つけました。
「友達って結局うわべだけじゃん。自分のことなんて誰も相手にしてくれない。もう人と付き合いたくない。」
 それはつい最近、別のところで聞いた言葉とそっくりなものでした。しかし、私はその子の周辺の子たちが「自分のことなんて誰も相手にしてくれない」といったタイプではないことを十分に知っていたのです。本人だって、もともとそういうことを言うような子ではありません。

 鏡に映った美しい風景が、鏡を破壊されることによって一瞬のうちに全面ひび割れ、醜く変化する、そういう言い方で分かるでしょうか? しかし実際の風景が変化したわけではないのです。

 本来は人間関係に苦労のないはずの「良い子」たちが突然不登校に陥っていく原因は、こうした集団に対する全面的な誤解(一部の人たちに対するものではなく、クラスとか学校とかを丸ごと対象とする誤解)があるのではないか。私が最近思ったことはそういうことです。しかも誤解は、その子に何らかの苦難があったとき、一瞬のうちに起きます。

 なぜそのような誤解が起こるのかは分かりませんが、誤解である以上、それは解くだけで問題解決につながります。もちろん説得ではなく、経験的に解いていかなければなりません。例えば、クラスで協力してなにかを行う活動とか楽しくおしゃべりするチャンスとかが,それにあたります。いずれにしろ、もっとも教室内に置いておきたい子どもたちです。
 

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2006/2/21

「不登校をつかまえた」@  教育・学校・教師


 不登校の原因は連射される二発の銃弾です。

 1発目の弾が「人間関係不全」だと、これは最初からみんな知っていたことでした。しかし世間が、やれ学校の管理主義のせいだ受験中心主義が原因だなどと攻め立てる中、敢えて声を上げられなかっただけです。
 その後、とにかく数を減らすだけでもいいといった極端な校則削減や、怒鳴り声もいけないといった極端な体罰禁止の雰囲気が広がり、小学校1年生ですら管理できなくなる(学級崩壊)に至って、不登校管理主義原因説は消えました。

 また、受験中心主義は少子化の中で自然消滅し、それでも不登校が減らないのを見て原因追求はそれ自体をしないようになっています。
「誰に責任があるかとか、原因が何かなどといっても意味がない。その子の今をどう支えるかが問題だ」
 かつての管理主義批判者・受験主義批判者そういう言い方をします。
 いまでも人間関係不全説は声高に叫ばれませんが、それは保護者との余計なトラブルを避けるため、あえて言わないだけのことです。

 人間関係不全の一つの理由はワガママです。
 ワガママではない子、小さな時から丁寧に他人との利害調整を学んできた子は、重要な欲求をひとつ通すために三つ我慢するとか、うまく言って人に取り入るとか、それがが通るかどうか少し探りを入れて様子を見るとか、様々な技術を身につけてきます。しかしそうした技術のない子は一日中他人とぶつかり合うか、欲求のすべてを押さえてじっと我慢しているしかありません。それはかなり苦しいことです。基本的に、学校になんか行きたくはありません

 もう一つの理由は「不器用」でしょう。人と同じようにできない、何をやっても遅れる、学校生活の中でさっぱりサエたところがない…こうした子も、学校で生き生きと生きていくことはできません。

 そうした二通りの子は昔だっていたはずですが、休み続けることは社会が許容しませんでしたから、さんざん大騒ぎをした挙句、強制的に学校に置かれているうちに、いつしか何らかの楽しみや喜びを見つけ、いつのまにか学校にいつくようになった、そしてワガママな自分や不器用な自分を少しずつ鍛え上げていった、そんなふうに思われます。

 不登校の二発目の銃弾は「いまさら戻れない」です。何日も休んでいるうちに学級内の人間関係は急速に変わってしまう。変わらなくても変わってしまっているような気がしてくる。もちろん勉強は遅れる、話題も変わっている、生活全般が変わってくる・・・そうなると、「いまさら戻れない」のは当たり前です。

 さて、そこまでは分かっていたのですが、いままでもうひとつしっくり来なかったのは、いわゆる「優等生の息切れタイプ」です。彼らには本来、「人間関係不全」のカゲすらないからです。しかしこれについてやっと、私は不登校を捕まえたという気がしてきました。

                     (続きはまた明日)


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