2005/11/21

「中1problem」  教育・学校・教師


 特に不登校の問題から明かになってきたことに「中1プロブレム」というのがあります。中学1年生になって突然不登校が増加すること、今まで非行とは無関係に思われた子が不良行為に走ること・・・こうしたことから、小学校6年生と中学校1年生の間には、なかなか越えがたい壁があるのではないかと考えられるようになりました。中学校に送り出す側として、どうした点に気をつけていかなければならないのでしょう?

 その第1は言うまでもなく学力です。中学校になると質的というよりは量的に飛躍的に学習内容が増えます。その増えた量についていけない子は、学校での6時間の授業の大半を傷ついたまま過ごさなくてはなりません。

 第2に、学力はさほどでなくても、毎日1時間〜2時間といった家庭学習に耐えられる子なら、なんとか学校生活を送っていきます。英語や数学などは毎日課題が出ますから、それをやり遂げられない子は毎日叱られてしまいます。叱られた子はまっとうな道を歩くことが難しくなります。

 第3に、勉強はダメでも部活を中心に生き生きと学校生活を送る子もいます。もちろんスポーツの才能が前提ですがそれだけではダメで、厳しい練習や過酷な競争に耐えられる神経を育てていなければなかなか長続きはしません。部活を辞めたあたりから非行に走って・・・というのはありふれた話です。

第4に、進路の問題があります。 
「とにかく今は勉強して、将来はその先に開けてくる」という言い方もありますが、目的なく中学校の勉強を続けていくのはかなりシンドイことです。「○○高校に進学する!」というのも直接的過ぎてイヤですが、「○○になるために」といった目標立ては、できればしておきたいものです。 

 最後に、
 そうは言っても結局は人柄の問題です。素直であること、よく努力できること、必要なことをきちんと果たせること、正義を愛し不正を憎むことができること、そう言うことのできる子は、中学へ進んでもなんの問題もありません。
 淡々と書きましたが、かなり深刻な問題です。


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2005/11/18

「子どもはなぜ席について授業を受けているのだろう?」  教育・学校・教師


 昔の子どもは先生の言うことをよく聞ききちんと勉強していた、というのはウソです。校長先生がいつぞやの職員会で示して下さった江戸時代の資料にもありましたし、荒れた寺子屋の様相は渡邊崋山の『一掃百態』という版画でも有名です。明治時代の旧制高校の荒れ具合は夏目漱石の「坊ちゃん」や「我輩は猫である」を読めばすぐに分かるでしょう。いつの時代も子どもは簡単に教師の言うことを聞いてくれなかったのです。
 しかしそれにも関わらず、多くの場合子どもが教師の言うことを聞き、きちんと席についているのはなぜでしょう?

@授業が面白くためになるから。…………もちろんそういうことがあります。

A先生が怖いから………それもあります。

B先生が好きだから………意外にも、これもありえます。

 しかし現実には、対して面白い授業をするわけでもなく、怖いわけでもなく、子どもに対して好かれていない教師でも、そこそこ授業を続けている例もあります。したがって、

Cなんとなくそういうものだと思っているから。ということもつけ加えておかなければなりません。
 小学校ではたいていそれで済みます。しかし中学校の場合、それらのすべてが打破されてしまうのです。

 例えば、@どんなに優秀であっても、掛け算九九も忘れてしまった生徒も楽しめる授業を毎日提供できる数学教師はいません。A先生はもはや怖くありません。小学校1年生にとって担任の先生に対面するというのは、私が小川直也に立ち向かうようなものです。相手が大きいというだけで言うことを聞きたくなります。しかし中学生の場合、立場は逆転しています。おまけに世間の大人と異なり、教員は絶対暴力は振るわないと保障のついた人々です。B稀に生徒に好かれている先生がいますが、言うことを聞くかどうかは別問題になります。そしてC。中学校の場合、これだけが頼りです。
 まず学校全体に「静かにきちんと学習する」という気風があり、それぞれの先生がどんなほころびも許さない、という態度でがんばっていればなんとかなります。しかし荒れた学校を普通の学校にするのは、外の人間が考えるほど容易ではありません。生徒指導は常に同時多発テロですから、事故処理だけで教師は疲弊しています。
 授業中の私語につても同時多発テロ的です。喋っている一組を注意している間に別の組のおしゃべりが大きくなり、そちらに向かえば別のところが喋り始める。結局注意し始めたら1時間中やっていなければならなくなりますから、授業が進められる間はあまり注意もしないのです。せめて新入生だけでもそうした雰囲気から守りたいのですが、廊下を上級生が走り回っている中で「ナンデ俺たちだけが真面目にやらにゃならんの?」と、妙な不公平感が1年生を包んだりします。

 さて、中学校に送り出す側である私たちにできることは何でしょう? それについては、来週考えたいと思います。
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2005/11/18

「子どもはなぜ席について授業を受けているのだろう?」  教育・学校・教師


 昔の子どもは先生の言うことをよく聞ききちんと勉強していた、というのはウソです。校長先生がいつぞやの職員会で示して下さった江戸時代の資料にもありましたし、荒れた寺子屋の様相は渡邊崋山の『一掃百態』という版画でも有名です。明治時代の旧制高校の荒れ具合は夏目漱石の「坊ちゃん」や「我輩は猫である」を読めばすぐに分かるでしょう。いつの時代も子どもは簡単に教師の言うことを聞いてくれなかったのです。
 しかしそれにも関わらず、多くの場合子どもが教師の言うことを聞き、きちんと席についているのはなぜでしょう?

@授業が面白くためになるから。…………もちろんそういうことがあります。

A先生が怖いから………それもあります。

B先生が好きだから………意外にも、これもありえます。

 しかし現実には、対して面白い授業をするわけでもなく、怖いわけでもなく、子どもに対して好かれていない教師でも、そこそこ授業を続けている例もあります。したがって、

Cなんとなくそういうものだと思っているから。ということもつけ加えておかなければなりません。
 小学校ではたいていそれで済みます。しかし中学校の場合、それらのすべてが打破されてしまうのです。

 例えば、@どんなに優秀であっても、掛け算九九も忘れてしまった生徒も楽しめる授業を毎日提供できる数学教師はいません。A先生はもはや怖くありません。小学校1年生にとって担任の先生に対面するというのは、私が小川直也に立ち向かうようなものです。相手が大きいというだけで言うことを聞きたくなります。しかし中学生の場合、立場は逆転しています。おまけに世間の大人と異なり、教員は絶対暴力は振るわないと保障のついた人々です。B稀に生徒に好かれている先生がいますが、言うことを聞くかどうかは別問題になります。そしてC。中学校の場合、これだけが頼りです。
 まず学校全体に「静かにきちんと学習する」という気風があり、それぞれの先生がどんなほころびも許さない、という態度でがんばっていればなんとかなります。しかし荒れた学校を普通の学校にするのは、外の人間が考えるほど容易ではありません。生徒指導は常に同時多発テロですから、事故処理だけで教師は疲弊しています。
 授業中の私語につても同時多発テロ的です。喋っている一組を注意している間に別の組のおしゃべりが大きくなり、そちらに向かえば別のところが喋り始める。結局注意し始めたら1時間中やっていなければならなくなりますから、授業が進められる間はあまり注意もしないのです。せめて新入生だけでもそうした雰囲気から守りたいのですが、廊下を上級生が走り回っている中で「ナンデ俺たちだけが真面目にやらにゃならんの?」と、妙な不公平感が1年生を包んだりします。

 さて、中学校に送り出す側である私たちにできることは何
でしょう? それについては、来週考えたいと思います。
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2005/11/17

「原風景」  教育・学校・教師


 老人の記憶の特徴のひとつは、近くのことから忘れるということです。昨日のことどころか1時間前のことも忘れてしまうのに、50年前の記憶についてはやけに鮮明です。私もそろそろそういう時期に入ってきています。

 それは私が小学校3年生の秋の夕暮れ、M市の薄暗いバスターミナルの一角でのできごとです。
 当時のMバスのターミナルは木造の傾げた建物、駐車場も未舗装で轍が深くえぐられているような裏寂しい感じのする場所でした。奥の待合室には裸電球がいくつか吊るされ、その下の木のベンチでは人々が押し黙って座っているだけです。ただし待合室の一角には妙に華やいだ売店があり、その隣りにはM市で一番最初に設置されたジュースの自動販売機がありました。
 私以上の年齢の人なら誰でも覚えていると思うのですが、真っ白な直方体の販売機の上に、巨大なそろばんの珠のような形をしたプラスチックのボウルが乗せられていて、その中でオレンジジュースが噴水になっているのです。何しろ初めての自動販売機ですから、何の機械なのかを示す必要があったのでしょう。

 その販売機の前で、小学校5〜6年生くらいの男の子が顔をビショビショにしながら泣いています。見ると手に持った財布から一円玉を果てしなく販売機に注ぎ込んでいるのです。ジュースの値段は20円でした。しかも10円玉しか受け付けてくれず、他の硬貨はみな吸い込まれていく仕組みになっていたのです。
 私はその少年に「1円玉はいくら入れてもダメなんだよ」と教えてあげたかったのです。けれど相手はあきらかに年上で、低学年の私が教えてあげるのは何とも出過ぎた真似だと感じていました。でも「キミの大切な1円玉、それ以上入れちゃあダメなんだよ」と言いたくて、私は一心にその子を見つめていました。

 で、一心に見つめていたはずなのに、その後どうなったかは一切記憶がありません。いい加減なのものですね。また、大人になってからは「あの子もある程度のところで1円玉がダメだってことは分かったはずだ。でも人間にはとことん破滅しないと我慢できないこともあるんだよ」とそんなふうに考えるようにもなりました。ですからやはりあの時は声をかけなくてよかったのです。

 ただし、私はそのことをいつまでも忘れませんでした。そしていつか、人が困っていたら真っ先に声をかけてやるんだと決心し、けれどそういうチャンスが訪れてもいつも勇気がなくて声を掛けそびれ、少し自己嫌悪を感じてからまた決心しなおしました。結局、だいたい思った通りに声をかけられるようになったのは、大人になってもずいぶん最近のことです。けれど今でも、あの時の薄暗い待合室の風景は、繰り返し私の頭に訪れれてくるのです。

 (今日は、書くことを思いつかなかったので昔話を書きました)
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2005/11/16

「読み聞かせの喜び」  教育・学校・教師


 自分の子のついては、上の子が1歳の時から下の子が小学校の5年生になるまで13年間、毎晩続けました。前任校が「読書の学校」で毎日読書の時間があり、ここでも4年間、毎日読み聞かせをしていました。別に自由読書でもよかったのですが、本好きの子にとって10分間は短すぎ、本嫌いの子にとっては10分間でも長すぎます。そこで、ここは一番、担任のわがままな時間として、私の好きな本を読んだのです。本好きの子でも読み聞かせの経験は少ないですし、本嫌いの子に自由読書をさせても、ロクな本を読まないか読んだフリをしただけで終わってしまいます。

 そんなふうに続けてくると、いくつか分かって来ることがありますので、それを箇条書きにしてみます。
@
 担任が読み聞かせた本は、次の週、クラスの誰かが必ず借りている。

A
 読み聞かせにふさわしい本は、年齢相応よりやや低くなる(その年齢にふさわしい本は、耳からだけだと理解が困難な場合が多い)。

B
 読み聞かせに最も向いている本は、もともと活字ではなく口承されてきたもの、つまり昔話の類であること。「日本の昔話」「韓国の昔話」「アラビアの昔話」といったものは実に伝わりやすい。

C
 読み聞かせをしても、全員が本を好きになるわけではない。しかし全員の心に、何らかのよい影響を与えられると信じられること。

D
 親子の読み聞かせは、本を間においた親子のコミュニケーションであること。極端に言えば、本が何であるかはまったく関係ない。読み聞かせに慣れた子は「親に読んでもらう」そのこと自体に心地よさを感じている。

E
 読み聞かせの声が男声であるか女声であるかは、もしかしたら決定的な違いがあるのかもしれない。 

 とりあえず、以上です。

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2005/11/15

[親にもいろいろある]  教育・学校・教師


 栃木県の小山市で授業日数を6日間増やし学力向上を図ろうとしているという記事が読売新聞(on line)に載っていました。授業日数を増やしても必ずしも「学力」が上がらないことは、国内最高の授業日数を誇る本県の学力で証明済みかと思うのですが、経験のない県ではそういう考えもあるのでしょう。保護者の期待も高まっているようです。

 政財界の人々が日本の学力を心配する気持ちはよく分かります。日本は資源のない技術立国ですから、学力(特に理数系)の有無はそのまま日本の将来を左右しかねません。しかし、普通の家庭のお父さんやお母さんが、学力向上を学校に期待するのは自己矛盾でしょう。

「ウチの子」の成績を上げるためには「ウチの子」が勉強すること、そして「ヨソの子」が勉強しないこと、それがベストの条件です。その意味で「ゆとり教育」は教育熱心な家にとっては千載一遇のチャンスだったはずです。授業時数を増やすなどして、学校ががんばればがんばるほど「ウチの子」は不利になってしまう、その増えた時間で学力を伸ばすのは「ウチの子」だけではないのです。

 それなのに、なぜ保護者はこぞって学校に授業時数(日数)の増加を要求するのか? それが不思議でしたが、読売新聞の記事はその疑問に答えてくれるものでした。

 10日、市立小山城東小から帰宅途中だった4人組の5年男子児童は、「もっと遊びたいのに嫌だ」「授業を受ける気にならない」などと一様に残念な様子。一方、2人の子供が同小に通う主婦(37)は、「家にいてもゲームをやって遊んでいるばかり。学校で勉強してくれるならすごくうれしい。家も静かになる」と喜んでいた。(11月11日読売新聞)

 保護者たちは必ずしも教育熱心な人ばかりではありません。でも、こういう方でも「もっと学力を!」と叫び、我が子から「静かな家庭」を守ろうと謀ります。
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