2005/10/4

「教員同士が『先生』と呼び合うこと」  教育・学校・教師


 昨日の副校長会で民間会社の社長さんのお話を聞く機会を得ました。なかなか示唆に富んだお話でしたが、中に気になることがひとつありました。それは「先生同士がお互いを『先生』と呼び合うことの愚」といった内容です。

「先生」というのは師弟関係の弟子の側から見た呼称であって、師同士が「先生」と呼び合うのはいかがなものか、こういった批判にはずいぶんと根強いものがあります。世に「先生」と呼ばれるのは国会議員に医師、大学教授に小中高の教員と、いずれも権威に関わる仕事ばかりです。そんなところから権威嫌いのにとが噛み付いているのかもしれない、別に誰にも迷惑のかかるわけではないのに余計なことを、と私は思うのですが、これが教員の意識改革の端緒になるといわれれば心穏やかではありません。

 私は教員同士が「先生」と呼び合うのはこの世界の美しい習慣だと思っています。「先生」と呼び合うことが、子どもが呼んでいるから教員同士も呼んでいるといっただらしないものではなく、もっと積極的な意味があると考えるからです。それは「我以外皆我師」といった考え方です。(これは作家の芳川英治が好んで書いた言葉で「宮本武蔵」の中で武蔵自身の言葉として紹介されたものです。しかし武蔵は、実際には言っていないようです)。

 基本的に学問の世界では互いを「先生」と呼び合うことを好みます。それは学ぶことが永遠に終わらないこと、誰からも学ぶべき多くのことがあると私たちが知っているからです。だからあいてがどんなに若くても、たとえ新米のペーペーでも、「先生」なのです。

 それなら相手が生徒でも隣のオッちゃんでも全部「先生」と呼ぶべきだ、ということになりそうでが、それでは社会が混乱するでしょう。ただし隣のオッちゃんでも講演会に講師としてお呼びするときは「先生」と呼びます。けっして「○○さん」ではありません。きちんとした人なら、どんなにベテランでも若い先生を「先生」と呼びます。それは相手を尊重し、そこから学ぼうという姿勢なのです。
(しかしもしかしたら将来「担任は息子にとっては『先生』かも知れないが親のオレにとっては『先生』ではない。しかも相手は年下だから、これからは担任のことを『○○君』と呼ぶことにする」そんな人も出てくるかもしれませんね)

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2005/10/3

「神無月」   歴史・歳時・記念日


 10月に入りました。昔流の言い方をすれば神無月(かんなづき)です。

 この月は全国の神様が出雲に集まって会議を開くので神のいない月(=神無月)というのだということは、中学や高校で教えてもらったと思います。だったら出雲地方で10月は上有月かというと、実際にその通りで、島根県では代々10月は上在月(または上有月)といいます。
 おまけに、出雲大社に行ってみると本殿の周辺に、掲示板に棚をつけたような変な造形物がたくさんあって、説明を聞くと10月に集まってきた神様がそこに座るのだと教えてくれます。名前も「長屋」というのだそうですが、実際に10月になるとそこに何かが置かれるというわけではないようです。

 現在も出雲大社本殿は巨大な建物ですが、平安時代まではさらに大きく、奈良東大寺大仏殿をしのぐ48m(ビルの12階建て分の高さ)があったと考えられています。(下の想像図)
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 ついでに、
 平安時代といえば怨霊と呪術と占いの時代です。神無月と聞いて当時の女性が最初に思いついたのは「髪無月」という言葉だったらしく、この月に髪を洗うと髪が落ちるといった迷信が流布し、貴族の家などでは丸一ヶ月洗髪をしなかったりしています。ですから部屋の中は大変臭い。お香が焚かれ、香道などという優雅な楽しみが流行するのは、そうした室内の悪臭を前提としていたようです。
(書くことがないので、今日はそういうお話をしました)
 
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