2005/10/31

「欺瞞の短距離走」  教育・学校・教師


 先日読んでいた本の中に、
「速い者同士を組み合わせて行う小学校のかけっこは欺瞞だ」
という話がありました。それによると
「こうした組み合わせでは、学年で一番でない限りいくら速くても一位になれない、逆に、遅い子でも一位の栄冠に浴するわけで、このようにして学校は子どもの真の実力を隠蔽し、誰にでもチャンスがあるように欺いて、子どもの社会化を遅らせてしまう」
ということになります。読んでいて私は「この人、子どもの頃は足が速かったのだろうなあ」と思いました。

 小学校のかけっこで一位になれなかった恨みを大人になっても引きずっている人はかなりいるみたいで、「せめて一番速い組については『この組は学年で一番速い組です』とアナウンスしたりできないものか」と言った話を何回か聞いています。さて、こうした考え方に対して、私たちはどう答えたらよいのでしょうか?

 もちろん、速い者が確実に1位になる組み合わせはあります。30人の男子を6人の5レースに振り分けるとしたら、予選の記録で、1・6・11・16・21・26番の子を同じ組にし、2・7・12・17・22・27番の子を同じ組に・・・としていけば、学年で5位までの子はほぼ確実に本番で1位になれます。なにしろ次の子との間に学年順位で5人分もの差がありますから、逆転はそうはないでしょう(これが大校で6人の10レースとなれば絶対に負けません)。ゴールでもそれぞれが一定の差で来てくれますから、決勝審判も楽なもので、混乱も起きないでしょう。
 しかし、本番で絶対に番狂わせのない「かけっこ」、全然面白くないじゃありませんか。

 それが小学校の運動会で「速い者同士を組する」本当の意味です。別に遅い子をかばっているわけではありません。「誰にでもチャンスはある」とウソの教えを垂れているわけでもないのです。とにかくやる前から順位が決まっていているんじゃ面白くない、やる気にならん、ということです。

 学校教育は近代教育だけを考えても既に100年以上の歴史を持っています。その中で今も続けられていることにはそれなりの意味があるはずです。学校のやることに対する保護者や世間の人々の疑問に対して私たちがうまく答えられないとしたら、それはその意味を十分に私たちが吟味していない場合だけなのだと、私にはそんな確信があります。

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2005/10/28

「あっ・・・・」  芸術・音楽


 学年会が妙に盛り上がっていると思っていたら、職員演奏の練り直しでした。アニメキャラの名前が次々に出てきて、「銀河鉄道999」の鉄朗の苗字が「星野」だったと再確認したり、「チビ丸子ちゃん」の野口さんが笑子(えみこ)という名前だと新発見したりと、私も少々まぜてもらいました。

 さて、年も本格的にとってくるとアニメもさっぱり面白くなくなり、自分の子どもの付き合いで出かけても喜んで帰ることは稀になりました。宮崎駿のシリーズも、どれも深く楽しめないのですが、ただひとつ感心したのは「千と千尋の神隠し」に出てきた 「顔なし」というキャラです。

@人間関係がわからない(声をかけるまでそばでボーッと立っている、不用意に声をかけると枠を越えていきなりなつく)。
A表現力がまるで乏しい(「あっ・・・・」)。
Bモノや金で人を釣ろうとする。
C思い通りにならないと暴れる。
Dパニックが収まると、また借りてきたネコのように戻る(「あっ・・・・」)。
クリックすると元のサイズで表示します
 私たちのよく見知った類型のひとつです。
 ちょっと押せば不登校にも非行にも走りそうな危険なタイプです。
 どこからこういう子が育ってくるのか、私はしょっちゅう考えていました。


 「あっ・・・・」


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2005/10/27

「読書週間に」  教育・学校・教師


 職員会で読書旬間の計画が出ました。以前、何か図書新聞のようなものに書いてあった詩ですが、なかなかいいものなのでここに記しておきます。学年だよりなどでも紹介してみてください。


こどもたちよ
                       茨田 晃夫


こどもたちよ。
私がお前たちに遺してあげられるものは、あまりにも少ない。
兄弟けんかも起こらないほどの僅かな財産と、正直だけが取柄の血筋、何枚かの写真。
そして、書棚の古びた本と、読書を苦痛に感じない習慣…。
伝えるものはそれですべてだ。
  (中略)
想像の翼を持たない者は、いつまでも夢にとどかない。
幸いお前には、インクの染みのような活字の羅列から物語を創造できる力を持っている。
小さな頃、寝床で本を読んできかせるとお前は目を輝かせていた。
その頃の興奮を忘れないでほしい。
こどもたちよ。
私がお前たちに遺してあげられるものは、あまりにも少ない。
兄弟けんかも起こらないほどの僅かな財産と、正直だけが取柄の血筋、何枚かの写真。
そして、書棚の古びた本と、読書を苦痛に感じない習慣…


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2005/10/26

「学校の宝物と絵の描き方」  教育・学校・教師


 写真(略)は職員玄関正面横にあるS先生の油彩『雄大』です。162.0cm×130.3cm。第13回日展出品作です。
 本校は歴史ある学校ですが、珍しいことに「書」というものがほとんどありません。先日紹介した体育館の「和貴」、職員室の「学而不息」そして職員玄関にある「愛」くらいなものです。それに対して「絵画」の多いことには本当に驚かされます。まるで学校全体が美術館のようです。その中でもこの『雄大』はただひとつ価格の分かっているもので、備品台帳では400万円ということになっています。万が一学校が火事になったとき、児童の安全が確保されたあとで副校長として命をかけて持ち出しに行くだけの価値のあるものです。
 写真は校長室にあるS先生の画集から採ったものですが、ページをぱらぱらめくっていくと、『雄大』の左下の大きな民家と同じような建物が繰り返し出てきます。例えば『風の村』『早春』といった絵に同じ建物が見えるのです。また私立病院に飾ってある『早春の嶺』は絵全体が本校の『雄大』の裏返しです。
 それもそのはずで、画集にある一つひとつの絵に書かれたコメントには、次のような文があるのです。
「前景から中景にかけては別の場所で取材し、構成したもの」「取材はC市北中村でH岳の方向を向いているが山は意識してかかなかった」「山そのものはF町で取材したが、手前の家はあちこちのスケッチをもとに構成している」「Y岳は右から移動しているので、現場にはこの風景はない」
 つまり、絵の中にある風景は現実のものではなく、あちこちから寄せ集め画面上で作り上げる(構成する)、その構成することを楽しんでいる、ということです。

 児童に絵をかかせている最中、ときどき「ああ、いい絵をかいているなあ」と思ってふっと目を離すと、いつのまにかロクでもない電線をかいて絵を台無しにしてしまう子がいたりします。用もない派手な看板をそのままかいてポスターにしてしまう子もいました。
 見たとおり、本物通りを移したいなら、写真の方がはるかに上なのです。絵は現実とは違った美の世界ですので、画面上ですばらしいことが大切であって、現実通りである必要はないのです。そのことを徹底させてから、私の児童の絵も、少しはましになりました。「あ、ここのところスカスカでさびしいから、あそこから木をもってきて植えてみたら?」ということです。

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