2005/9/30

「言葉遊びの世界」  教育・学校・教師

 明日から年度後半、10月1日は衣替えです(子ども替えではないので気をつけてください)。

 さて、 
 時間に余裕があったら言葉遊びを楽しんでみるといいのかもしれません。

 代表的なものは『早口言葉』
「赤巻き紙、青巻き紙、黄巻」「お綾や、母親にお謝りなさい」は特に有名なところです。

『回文』は「しんぶんし」などしたから読んでも上から読んでも同じ言葉です。この場合、「や・ゆ・よ・わ」のかなを小さく書き添えて表わす拗音や小さな「つ」であらわす撥音は大きな文字に変えてもいいことになっているようです。濁点の有無も無視できるようですが。
「『死にたくなるよ』と夜泣くタニシ (シニタクナルヨトヨルナクタニシ)」
「サイナラ。祭りは終わりつまらないさ。 (サイナラマツリワオワリツマラナイサ)」

なんてのはどうでしょう?

『アナグラム』は言葉の並べ替えです。
「サンタが街にやってくる → 日夜待ってサタンが来る」
「あん時の匂い → アントニオ猪木 」
「郷ひろみ・松田聖子→ゴミ拾う、セコイ妻だ」


『なぎなた読み』は読点のつけ間違え。
「呪いの、墓場だ。 → のろいのは、カバだ。」
「今日中に、食べましょう。 → 教授、ウニ食べましょう」


『アクロスティック』(あいうえお作文)は子どもと一緒にできるはずです。
 らくばかり
 くろうしらずのいいじだい
 だけどさいごに
 いたいめにあい
 「楽ばかり 苦労知らずのいい時代 だけど最後に 痛い目にあい」


『言葉隠し』
「笑うミカエル」 →「わら・海・カエル」
「お腰に付けたきびだんご♪」→ 「おこし・煮付け・たきび・だんご」
「禿げ(はげ)隠し 君といい仲 つなぎたく 」
   → 「半家・賀来・志木・水戸・飯井・那珂・津・那岐・多久」 

  (すべての音がJRの駅名になってるそうです)。

『読み間違え』
「思わず逆上した → おもわずさかあがりした」
「旧中山道(きゅうなかせんどう)→ いちにちじゅうやまみち」
「秋の気配 → あきのきくばり」


他にも、
『聞き間違え』(万里の長城 → バンビの症状)
『濁点の有無』(傲る自民 → 怒る市民)
といったものがあります。ところが

 近年、今までにない言葉遊びが発明(発見?)されました。それは『変換ミス』です。校長先生が面白い記事を見つけてきてくださいましたので、裏に張っておきます(略)。

(なお、上の言葉遊びはほとんどを「白くま君のホームページ」から引用しました)


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2005/9/29

「陰で誉められる・陰で叱られる」A  教育・学校・教師


(昨日の続き)

(最近の話ですが)
「そのヘア・スタイル、素敵ですね」
「ありがとうございます・・・・・・・・でも、この髪型にしたの、先週なんですけど」
「・・・・いや、その、今日の寝癖の感じが・・・素敵・・・で、」

(昨年の話)
 某旅行会社の臼井さん(黒板を見ながら)「副校長先生、字、お上手ですねェ」
私「・・・・・・」
臼井さん(そばにいた中居恵美先生を見て)「ね、そうですよね、そうですよね」
中居恵美先生「・・・・・・(薄く微笑みながら、知らんフリ、知らんフリ)・・・・・・」

 歌手の都はるみに「歌、うまいですね」と言って怒られた人がいます。確かに、素人がプロに向かってその分野のことで「うまいですね」はないでしょう。
 誉めるというのは難しいことです。

 誉めることは教員の大切な仕事ですから、私たちは実によく子どものことを良く誉めます。傍からみると歯の浮くような誉め言葉でも、繰り返しやっていれば必ず効きます。必ず効いてうまく行くから、また誉めることができます。物事がうまく回転しているときはそんなものです。

 しかし高学年などでは、そうではなく、人間関係がうまく行かず、本気で誉めても『またオベンチャラ言ってるワ』みたいなことになる場合だって少なくありません。特に生徒指導的な問題で指導中の子どもなんかは、非常に難しくなります。ところがある日、そういう子をうまく持ち上げる方法を私は発見しました。それは陰で誉めるということです。

 たとえば本人のいないところでその子の友だちと話している最中に「あの子はね、ホントはすごくいい奴なんだ」とか、本来は直接本人に言うべきことも「この間あの子、こんなことをしていて本当に感心したよ」とか言っておく、するとその話は確実に本人の耳に届くのです。時間のかかることもありますが、その子が私のの悪口を言ったときなどに「だけど先生、キミのことこんなふうに言ってたよ」見たいな形で情報が出て行くのです。すると、その誉め言葉は実に効果的に効きます。何しろ何の関係もないときに陰で言われたことですから、実に本物くさいのです。

 もちろん逆もあります。陰で子どもにささやいた悪口はほとんど瞬間的に本人の耳に入ります。私は児童会の顧問をしていたとき、仕事に来ない児童会長のことを「アイツはダメだ、最初から児童会長のウツワじゃない」みたいな言い方をしたところ、翌日の日記に「先生がボクのことをどう思っているか、よく分かりました」などと書かれてしまいました。言ったその日の日記に書いてあったのです(陰デ 聞イテ イタノカ?)。

 まさに「悪事千里を走る」というヤツですね。

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2005/9/28

「みんなの前で叱られる・みんなの前で誉められる」  教育・学校・教師


@みんなの前で名指しで叱る。

 クラス内で騒ぐとか私語をするとかで名指しで叱られる児童がいます。全員の前で叱られるわけですから一種のさらし者で、それだけ余計に深い反省がなされるような気がします(モウ、二度ト コンナ目ニ 会イタク ナイ・・・)。ところがドッコイ、そうはならないことが実験で確かめられています。
 そんな場合、ほとんどの子は内心不貞腐れ、聞くべきことも聞かずに反抗心を燃やしているというのです。
 一方、叱られているわけではない「その他の子」はどうかというと、こちらの方は小さくなってひたすら「コンナ目ニ 会イタク ナイ・・・」と思っています。
 つまり肝心の「悪さをした子」にはほとんど効果がなく、「その他の子」にこそ効果のあるのが、この「みんなの前で名指しで叱る」という方法なのです。(これを逆手にとって、内容を徹底させるために、わざと生け贄をつくり、これを土砂降りのごとく叱ることで他の全員をびしっとさせる、というトリッキーなワザがあります。これを「血祭りに上げる」といい、気が良く打たれ強い子が生け贄にされたりします。私はそういう子でした・・・・たぶん)

Aみんなの前で名指しで誉める。
 誉めるのは教員の仕事ですから、先生たちは実によく子どもを誉めます。個人的にも誉めますが、みんなの前でもよく誉める。
 一人の子をみんなの前で誉める、そのとき教員は本人が心地よくなるとともに、周囲の子たちも「あんな風に誉められたい」「ボクもがんばろう」と思ってくれることを期待します。しかしところがドッコイ。大半の子はそうした話を熱心に聴いていないのだそうです。誉める話が始まって、それが自分のことではないと知った瞬間に、サッと心にレースのカーテンを引いてしまいます。中には「あれくらいで誉められて・・・」と憎憎しく思っている子もいたりします。
 もちろん誉められるご本人は天国に上るような気持ちでいますから、「みんなの前で誉める」ということは大事には違いありません。しかしそれが単純に周囲に広まらないということは覚えておかねばならないでしょう。
 難しいものです。


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2005/9/22

「様々」  教育・学校・教師


 運動会の二日ほど前、夕方の校内を見回りしていると、1年2組から音楽が聞こえ、見ると森孝子先生と小平彩子先生が「ひびけ!K校っこ太鼓!!」の練習をしておられました。踊りに合わせて太鼓をどう叩くか、という練習だったと思うのですが、それが実に楽しそうで大変好もしく思えました。子どもと何かを仕上げていくことが面白くてしかたない人たちです。

 このところ様々な事情(学校・私的な)で、何人かの母親と話す機会が多くなっています。その中で考えさせられたのは、子どもといることが少しも楽しくない、ただ苦痛なだけの人が少なからずいる、ということです。これはなかなかゆゆしき問題です。

 単純に考えれば、人間には誰しも好き嫌いがあるのだから、子ども好きもいればそうでない人もいる、だからそれでいいじゃないかということになるのですが、母と子というとそうは言っていられません。最初から嫌いと分かっていて「母親にならない」選択をしているなら別ですが、産んでみて初めて子どもが嫌いであることが分かったり、育ててみて初めてその面倒にウンザリしたりということだってあります。また、別に産みたくて産んだわけでもないといった場合だってあるでしょう。

 そうであるにも関わらず、産んでしまえば母親は母親で、子はいつまでもそばにいて生きていかなければなりません。さらに、私たちの中には「愛情のない母親なんていない」といった固定観念がありますから、そうした世間の理解からも追い詰められていきます。

 今月の雑誌『文芸春秋』に「母のこと」という短い文章がありました。ちょっと考えさせられる文ですので裏面に張っておきたいと思います。

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