2005/8/23

「生きていくための居場所」  教育・学校・教師


 夏休みにマリー・ローランサン美術館に行ってきました。規模の割りに入場料の高いのにはあきれましたが(1500円)、そこで私は、若い頃慣れ親しんだ懐かしい詩に出会いました。

 鎮 静 剤    マリー・ローランサン    堀口大學 訳

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。  
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。  
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。 
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。  
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。


 この詩で大切なのは最後の1行だけ、後は延々と最後の1行を光らせるためだけにあります。
「人生において最悪なのは『忘れられること』、それを考えれば、他のすべての不幸の痛みははいくらでも耐えられる」(だから鎮静剤)ということでしょう。

 昨年末に義理の母が軽い脳卒中で倒れ、長い入院の後にしばらく施設にいました。非常に設備の整った施設で何不自由なく一日を過ごせるようになっているのですが、見ている私には、どうしても「それでいい」と思えないものがありました。確かに居場所はある、けれどそれでいいのかということです。

 私たちの世界でも「居場所」という言葉はしばしば使われ「すべての子に心の居場所を」といった言い方がスローガンのように繰り替えされますが、これについても「それだけでいいのか?」と私は感じます。クラスの中で家庭の中で、その子が居心地良くいられる場所、それがあれば人間は生き生きと生きていけるのか、という問いです。

 答えはもちろん否です。私たちが生き生きと生きていくためには居場所だけではなく、そこに存在している理由、つまり「必要とされている実感、誰かのために役立っているという実感」がなくてはならないのです。


 クラスの中に、その子が抜けても誰も何の痛痒も感じないような子はいないでしょうか? その子がいないと仕事が滞るとか、その子がいないと遊びが十分楽しくないとか、あるいはその子がいないと誰かが寂しい思いをするとか・・・そういうことのまったくない子。それこそ『忘れられた女』です。

 私たちは常に「誰もが受け入れられるクラス」「多様性を認め合うクラス」というものを目指してきました。もちろんそれは必要なことですが、それだけでは絶対に足りない。2番目の段階として「その子が必要とされるクラス」「クラスに必要とされるその子」づくりを考えなくてはならない、それが重要なのです。

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