2005/6/30

「心の教育をする」  教育・学校・教師


 道徳の授業を行うのはなかなか気の重いことです。理由の一つは教材を見つけにくいこと、もうひとつは指導書のない世界ですので、授業の運びに自信が持てないこと、三つ目は算数や国語と違って定着の度合いが計りにくいこと、その当たりかと思います。

 しかし授業ですから、考えておくべきことはひとつです。それは校長先生がいつもおっしゃっているように「主眼をしっかりと押さえておくこと」です。

 この点にだけで言えば、道徳はかなりやりやすいものです。なぜなら、どんな授業にも通用する共通の主眼があるからです。それは
「教材に触れ、話し合うなどの活動を通して、『かくありたい』との願いをもつ」
です。

 生徒指導の要は「罪深さを知る」です。したがってマイナス評価が中心となります。「〜してはいけません」の世界です。それに対して道徳の要は「かくありたい」で、まさにプラス評価なのです。

 毎回の授業に指導案をつくるのは大変ですが、教材をざっと読み、どういう発問を経て「かくありたい」という気持ちをつくるか、それだけ考えて教室に向かいましょう。
(「かくありたい」ですから、「かく行える」でなくてもいいのです。「先生、オレもそうしたいんだよ、今はできないんだけどなあ」、とそれでいいのです。)



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2005/6/29

「心の教育はしない」  教育・学校・教師


 何か生徒指導上の問題が起こった時、よく「心の教育をしなさい」とか「命の教育をしなさい」といった言い方をします。けれど私は不賛成です。問題行動に際して「心の教育」はしてはならないのです。
 なぜなら「心」を問題にした場合、「あなたの心がゆがんでいるから悪いことをしたのだ」ということになりかねないからです。「あなたは人の気持ちがわからないからこういうことをしたんだね」「あなたは何が悪いか分からない子だから、こういうことをしたのね」、では救いがありません。
 「罪を憎んで人を憎まず」は日本人の美風です。罪を罪として「人」から切り離すのは子どもの心を守る上でもとても大切なことです。

(以前にも書きましたが)生徒指導の手続きにおいてもっとも大切なことは、「克明で客観的な事実をまざまざと目の前に見せる」「そのことによって己の罪深さを分からせる」ということです。
 また、罪深さを自覚した後は贖罪が必要ですから(そうしないと罪は洗い流せません)、本来は当然「罰」ということになります。ただし今は「罰は学校教育に馴染まない」ということらしいですから、「親にありのまま報告する」をもって罰の代用とします。
 こういうことはできるだけ事務的に、心を問題にせずに行います。

 では「心の教育」はいつやればいいのかというと、もちろん道徳の時間にやればいいのです。日々の担任講話の中で繰り返し、毎日やればいいことです。仮に、誰かの命が失われた後であわてて「心の教育」やら「命の教育」をしているとしたら、それはかなり恐ろしいことですよね。


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2005/6/28

「学力向上フロンティア拠点校事業」  教育・学校・教師


「学力向上フロンティア拠点校事業第1回〇〇推進地区協議会」というのに行ってきました。
「学力向上フロンティア拠点校事業」というのは文部科学省の指定を受け、県内の10小学校、5中学校を拠点に、学力向上を目指していこうとする事業で、本年度からの3ヵ年事業です。拠点校には昨年度までのフロンティアスクール指定校が引き続き拠点校として引き継いでくれることになっています。

 昨日の地区協議会では上智大学の奈須正裕先生の講演もあっていろいろ考えさせられましたが、ひとつ思ったことは「基礎学力」とは何か、ということです。奈須先生もこの言葉を無意識に使っているようでしたが、「基礎学力」には「〜のための」という言葉が前につかないと、意味がぼやけてしまうような気がするのです。
 例えば、高校で学ぶ微分や積分は大半の人々にとっては「基礎学力」とはなりえないものです。けれど数学者や特定の技術的分野に進もうという人にとっては基礎中の基礎でしょう。小学校でわり算を学び始める時、かけ算九九と引き算は必須です。したがってこの二つが「わり算」を学ぶための基礎学力ということになります。つまり「基礎学力」というのは徹底的に未来志向であって、先を見据えないと決め出されてこないものなのです。

 そう考えていくと、小学校で身につけておかねばならない基礎学力の一部は、確実に「中学校の学習に耐えて行くために必要最低限の学力」ということになります。さらに考えを進めると、小学校で学ぶことの全部が基礎学力だということになりかねませんが、実際にはそうではありません。中学校でやり直してもらえるもの、できなくても何とかなるものはいくらでもあります。例えば社会科の歴史でいえば、戦国時代というのがどういう「感じ」の時代で、3人の武将が分担するかのように収めていって江戸時代という安定した時代を生み出した、ということさえ理解していてくれればいいのであって、楽市楽座とか長篠の戦だとかはさほど重要な問題ではありません。難しいのはむしろ「感じ」なのです。
 そういった観点から、もう一度授業を見なおしてみたらいかがでしょう。

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2005/6/27

「防衛的になる学校の危機管理」  教育・学校・教師


 校庭の遊具が6個(回旋塔、ふたつの空中シーソー、三つの丸太平均台)も撤去されてしまいました。危険といえばブランコも登り棒も危険ですから、全ての遊具が校庭からなくなってしまう日も遠いことではないのかもしれません。何でも学校に責任を負ってもらおうという時代ですからしかたないのかもしれませんが寂しいことです。

 ここ数年、学校は極端に防衛的になっています。「学校の危機管理」という言葉も、最初は災害や犯罪に対してどういう備えと対応をするのかというのがテーマでしたが、最近では世間(マスコミ)から追求されないためにはどうすれば良いのかといった曲がった内容が中心になってしまっています。しかしそれもしかたないことです。

「いじめられて、さようなら」(佐瀬稔 草思社 1992)という本があります。これは「いじめ・自殺」事件を裁判を中心としてあつかったルポルタージュなのですが、読んで学んだことは、何が何でも裁判にかけられてはいけないということです。なぜなら、裁判を通じて争われるのは真実が何であったかということではなく、賠償金をいくらにするかという金額の多寡だからなのです。出廷を求められた学校は毎月のように膨大な資料を用意して裁判所に向かいます。大変な労力を使った上に、ボロボロに傷つけられて帰ってこなければなりません。私自身もそんな目に会いたくありませんし、先生方をそんなことにかり出すこともできません。

 また、JR西日本の例でも分かるように、裁判になる前にマスコミによって学校はボロボロにさせられてしまいます。事件は起こすだけでアウトなのです。

 昨日、朝のニュースショーを見ていたら、副業として私立学校の校長もやっているという人(本業が何であったか忘れてしまいましたが)が次のような発言をしていました。
「(高校生による両親殺害・爆破事件について)子どもが悪い、親が悪いと言ってもだめなのです。なぜ教師は子どもと面と向かって問題に立ち向かうことができなかったのか。校長が『親を殺したいと言っていたようです』なんていっているようではだめで、きちんと話せば子どもはわかるはずなのです。私の学校にも担任から見ればどうしようもない子がいます。そういう子は私が校長室で一対一できちんと話します。そうすれば必ず分かるのです」
 こうした発言を視聴者が鵜呑みにするとは思いませんが、子どもについて学校は何でもできるはずだ、できなかった学校には損害賠償を請求できるはずだ、といった思いは確実に昂進していくはずです。

 とにかく熱意をもって子どもに向かってさえいれば良かった時代は終わりました。私たちは常に身辺に注意し、脇を甘くしないように気をつけていなければなりません。
 
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