2013/11/27

「子は何を学んでいるのか」  親子・家族


 参観日――昔は子どもよりも、親にとって特別の日でした。学校の高い敷居をまたぐのですからそれなりの格式がなくてはなりません。保護者(たいていは母親)の半分近くは和服で、洋服の人も髪にパーマを当てたりとしっかり化粧をし、凛として教室の後ろに立っていたものです。
 もっともめったにしない人まで化粧をするので一部はやたらとケバケバしく、まるで場末のスナックの女給(ホステスなどいった粋なものではありません)みたいになってしまった人までいました。それでも背筋を伸ばし、しっかりと前を見据えていました。

 親が見られ、子どもが舐められてもいけないと、そんなふうにも思っていたのでしょうか。あるいは親同士、教養のない人だとバカにされるのが嫌だったのかもしれません。とにかく参観日は“ハレ”の日で、特別な装いをすべき日でした。

 しかし今は違います。いまどき和服で来る母親がいたら目だってしかたありません。スーツの人も多くはない。普段着もしくは勤務先の作業着のままで来られる方もおられます。Tシャツ、ジーパン、なんでもありです。
 それがいけないというのではありません。時代が変わったというだけの話で、作業着での参観にしても、仕事の合間のわずかな時間を子どものために縫ってきたと考えれば賞賛すべき話です。学校の敷居はずいぶん低くなり気兼ねなく来られる場所になった、そういう意味でも悪くない話で、結局は昔はああで今はこうという等価の話に過ぎません、ここまでは。

 問題はガムを食べながら参観する親、親同士の会話に夢中になって授業をほとんど見ていない保護者、その話声が大きすぎて子どもの学習の妨げになっている人、そんな保護者たちです。
 学校や教師に無礼だという話ではありません。その姿を見て、子どもたちが何を感じるか、親から何を学ぶのか、そういうことに無頓着でいいのか、ということです。

 その子はもしかしたら親のそんな状態にまったく気づいていないのかもしれません。気づいて、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしているかもしれません。前者だったら幸せ、後者だったら気の毒なだけです。
 しかし気づいた上で何も感じていないとしたら、それはそうとうに心配です。その子は親を通して、「公共の場でも私的な欲望を優先してかまわない」ことを学んでいるのかもしれないからです。
「周囲を観察し、状況にふさわしい態度をとるべき」というもう一方の道徳を、学び損ねている可能性もあります。そしてそんな親に限って、保護者懇談会の席では「なぜウチの子はあんなにおしゃべりなんでしょう。授業中くらい黙っていてもよさそうなものを」とか言ったりします(私、理由、知ってますけどねッ)。

 昨日、車列の4台目くらいで信号停止しようと思ったら、目の前の車が左折でコンビニの駐車場に入ってそのまま抜けて行ってしまいました。子どもが2〜3人乗っていました。その子たちは「お母さん、ボクたちのために急いでくれてありがとう」と感謝の思いを深めたでしょうか。それとも「ああ、赤信号ってこうやってかわすのか」と母親の頭の良さに感動したのでしょうか。

 赤信号を守らない母親、自分の子のために集団をかき分けて前へ出ようとする父親、そのとき、子が何を学んでいるか、本当に恐れなければならないのはそういうことです。
 この話、どうやって保護者に下ろしていけばいいのか、ちょっと思案しています。



4



トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ