2013/7/19

「王様は裸だ」A  教育・学校・教師


 不登校について言えば、ごくごく当たり前のことですが、その中に怠学の子もいれば病気の子・障害の子もいる、人間関係に未熟な子もいれば社会関係の認知に問題のある子もいる、拗ねている子もいれば訳が分からなくなっている子もいる、今日の学校や社会を糾弾するためにあえて学校に来ない確信的な児童生徒もいる、要するにさまざまな不登校があるということです。また不登校の始まりから長期化するまでの間に多くの変遷があり、一人の子の中でも一様ではありません。時期によって不登校の意味は異なっていたりするのです。
 もちろんだからといって、千人の不登校児がいれば千種類の不登校があるとは言いません。多様性は無限ではなく、ある程度の枠の中にあります。おそらくそれが正しい見方です。

 同様に、いじめにも様々なパターンとバリエーションがあり、時間軸で変化する内容があります。ジャイアンのような単純ないじめっ子もいれば、スネ夫のように気の毒ないじめの随伴者もいます。弱者がひそかに、しかも執拗に行ういじめもあれば、首謀者ですら全くコントロールできない暴走的ないじめもあります。
 自殺につながるような残酷ないじめが、ある日突然、爆発的に起こるなどということはありません。最初はそれほどでもなかった―いじめですらなかったものが徐々に、じわじわと、被害者も加害者も意識できないほどゆっくりと変化していき、いつしか取り返しのつかないものになる、そういったケースが大半です。
 ですから「いじめは100%いじめる方が悪い」というのも「誰でもいじめの被害者になりうる」というのも正しくありません。特定の時点、特殊な状況ではそうかもしれませんが、事実はもっと複雑なのです。ひとことで言い切ることなどとてもできません。
 しかしこの件についても、私は「王様は裸だ」と言うことをしませんでした。ごく当たり前なことを言っても、政府も社会も受け入れようとはしないからです。

 裁判が終わったあとで「それでも地球は回っている」と呟いたガリレオのように、面従腹背で自分の気持ちを曲げずにいるだけで、それ以上のことはしません。ガリレオと同じで「男らしいかどうか」はあまり価値基準の中に入ってこないのです(あの裁判の最中に「地球は回っている」と言い続けて死刑になっていたら、ガリレオの評価はどうなっていたのだろう―そのことは繰り返し考えます)。

 さて、私が今、卑怯者になって口をつぐんでいること、言ってもしかたないと諦めていることの一つは「教員も人間だ」ということです。別な言い方をすると「教師にも限界がある」「教師だって世間並みにだらしなかったり情けなかったりする」ということです。

 たとえば、どんなに厳罰化を進めても教員の非違行為はゼロにはなりません。なぜなら私たちも普通の人間の要素をたくさん持っているからです。制限時速40kmの道路を40kmで走ったら申し訳ないと本気で感じているからです。普通に周囲にあわせれば、50km〜60kmはすぐに出てしまいます。40kmで我慢していたって、下り坂では速度超過をしかねません。絶対違反をしないとなれば、常に30kmか35kmで走るように心がけるしかありませんが、そんなこと、まじめで臆病な教員にできるはずはないのです。

 同様に、一日に4時間も5時間も超過勤務をしている教員の中には、注意不足や散漫から違反や事故をくりかえす人も出てきます。そしてそのレベルを越えると、一部はうつ病を罹患し、別の一部は正常な判断力を失ってさらに異常な非違行為に走ります。そうとでも考えないと40歳を過ぎた分別盛りの教員の、あまりにも稚拙な非違行為は理解できません。

 しかしそれでも、私は「教員も人間だ」とは言いません。社会が教員に求めているのは、もっと、もっと、もっと高い道徳性なのだからです。



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