この頃はだいぶ開けてきたとはいえ、山の麓の農場だから、農場の周りは森の自然だ。
森の自然と日常的に接すると、いろんな営みに出会う。
疥癬で弱ったタヌキ、交通事故のウサギ、ヘビに絞められたリス、溺れた子ザルやウリ坊、行き倒れた子ギツネ。
の死体が転がっていたりする。
当たり前だけどいろんな理由で動物が死んで、それを目にする。
多くは、最初にカラスがつつき始めて、それを横取りするケモノがいて、腐ってハエが卵を産んで、ウジが湧いて、骨になる。
動物の死なんて、自然の森の営みの物差しだと、大きな出来事で、物凄い勢いでその死体が分解されて、次の命になる。
運よくその過程を見る事が出来れば、
特にウジが肉を食べて動き回る様は、まさに、湧いているように見える。
もちろんその現場は腐臭が漂ってくっさいんだけどね。
ダイナミックな光景に意外にも感動すると思うよ。
あらためてもう一度言う。
命は多様で脈々とつながっていく。
つながっていくために、多様で、揺らぎがあって、融通が利くようになっている。
そもそも、何か目的を持ってあるわけではない。
命は、最初からある。
あらゆる個性をまといながら、湧いて出てくる。
理由や目的や役割があって産まれて来る訳ではない。
初めから多様で、初めからある。
だから。
この鶏飼いオヤジから見れば、自然権・人権は天賦の当たり前の観念だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%A8%A9
国家主義の議員や政治勢力の人は、大人になる前にちゃんと自然と触れ合った事がないんだなと思う。
勉強不足であるか洗脳されているか。辞めた方が良いし、選んではいけない。
「国体護持」を理由に終戦の受け入れが遅れて、それでたくさんの国民が犠牲になった。
そういう歴史の見方で合っていると思う。
森のウジ虫を見て、終戦記念日前にそんな事を思う。
上手く書けているかはわからないけれど。終戦記念日前に書いておきたかった。
(画像は数年前に見つけたウサギの骨。骨がそのままきれいに並んでいたのでケモノに見つからずちょっかい出されなかったようです。)
