誰かと話をするってのは、いいもんだな。
とりわけ話がスマートな人とだと、上手く伝えようとか、論理に整合性があるかとか、気をつけながら話すから、もやもやとしてまとまってなかった事が整理できたり、忘れてたことを思い出したりする。
ちょっとその人の頭を借りた気分。 脳ミソ泥棒?
少し前、友人が焚き火をするからタマゴ産まなくなったトリをくれ、と言ってきた。
ちょうどいいのがいたので20羽ちょっとプレゼントした。
自分でさばいて B.B.Q にして。
そりゃー硬かったそうだ。
http://blog.livedoor.jp/yasuyo4033/archives/55476735.html
「歯がしなる肉」だって・・・
でもさぁ。うちのトリはそんなに特別アスリート的にきたえてる訳わけでもない、フツーに地面の上で暮らして止まり木にとまって寝てる、だけなんだからさぁ。
生後40〜50日で出荷になる市販のブロイラーがどれだけぶにょぶにょに飼われてるか、って事なんだけどね。
で。
その焚き火のホストファミリーのお嬢さん、小学生が、その20数羽のうちの一羽を肉にしないで飼うことにしたんだそうだ。
普段、愛玩用に廃鶏を欲しいという問い合わせには、家畜伝染病のこともあってお断りしている。
だけど、この場合はね。
優先順位がちがうからね。彼女の気持ち最優先よ!
(その友人も病気に関する基本的知識が充分あるし。)
よーく選んで(その他のトリをお肉にしてこれから食べちゃうぞってこともよーく理解して)、一羽残して名前をつけた。
夏休みの課題になるんだそうだ。 よかったです。
で。
残した一羽がとても「いい子」なんだそうだ。
元気だけどおとなしい、あれこれしろって声出さない静か、しかも人なつっこい、なんだって。
たしかに、家畜にだって個性はある。
目的が効率よく利用するための品種改良の結果だし、大量に飼ってナンボの商売、そんなこと誰も考えない。
でも一羽一羽間違いなく個性はある。
よく選んだね。エラい。
で、さらに。
彼女の学校のお友だちも、近所の大手養鶏場から廃鶏もらって来て、飼っているらしい。
その子が飼っているやつと、うちから行ったやつじゃ、同じ系統の同じような経歴のトリ(茶色い羽根の品種の廃鶏)でも、ぜんぜん違うらしい。
あんまりなついてこないし、ばちゃばちゃ落ち着かないらしい。
「ははぁ・・なるほど。」
みたいな控えめなリアクションを俺はしたけど。
これは大きい。大きな違い。
よっしゃ〜!と叫んでもよかったぐらいだったんだな、実は。
「自動エサやり機なんかにして、もっと羽数増やせばいいじゃないですか?」
ずっと言われてきた。
それをやらなかったのは、そこだと思う。
そういう違いが出ると直感してたんだと思うし、それが大事なことではないのか直感してた。
ヒヨコの時から、誰かが、つまり人が、飼って、手をかけると、こういう差が出る。
まさに手をかけるということは「手の形とか動きとか認識する。」ということで、ヒヨコが「手について考える。」とも言える。
飼う側と家畜の相互認識、関係、が出来る。
それ。
それがないとね。ただ搾取するだけになる。
相手が命なのにさ。
その無意識の意識が、いずれどうなるか?が不安になる。怖いと言っていいかもしれない。
大げさな、って言われるかもしれないけど、「世相」ってそういうとこから始まるんじゃないかな?と本気で思う。
家畜に対して完全に支配的であるのが世界の主流だ。
採卵養鶏でいえば、ニワトリをカゴに入れて運動を制限して、90パーセントを越える産卵率をたたき出すなんて、完全勝利でしょう、ある意味。
他の畜種でも同様だし。
それがフロンティア精神で、それが今は世界を制覇しているのかもしれない。
ただ・・・「他者」や「自然現象」に対して支配的であることだけを求められる時代なの?そうなのぅ〜?
違うと思ってるからこれ(平飼い養鶏)をやる。
たかが食い物、たかがタマゴ。それをどこまで膨らませるか。
生活の暮らしの消費の、「主義」になる得るかどうかの境目でうろうろしてる感がある。
がんばりどころかな。
だからがんばる。
おしゃべりしてるうちに暗くなってしまい、彼は軽トラに乗って帰っていった。
はじめて彼を紹介された時、「彼は日本でも十指に入るオルガン製作職人なんだよ。」と紹介者が言っていた。
「10人ぐらいしかいないらしいけど。」とも。
オルガン製作と平飼い養鶏。
彼とは教養のレベルはずいぶん違うけどさ。マイナーであることだけは同じだ。
だからかな、自我を抱え、仕事も生活も境目なく暮らす。日常が表現であり、体が資本。
そして、よく考える癖がある。
博学なオルガン職人の脳ミソをお借りした、夏の夕方。
楽しかったな。
(また。勝手に書きました。ごめんなさい。)