夏休み前。学校の理科(に相当する科目)の授業でミニトマトを作るという。
去年、夏に朝顔を作ったプランターで作るんだそうだ。
ええっ?あんな小さなプランターでトマト?
と、ちょっと思ったけど忘れてしまっていた。
ある土曜日、用事があって小学校へ行く。
校庭に降りる南側の階段に、あるある、お揃いのプランター。
へぇ〜、見てみるか。
近寄って見てみるとどの鉢もちゃんと中玉のトマトがなっている。
さすがに揃うようになってるんだねぇ。
でも待てよ。
たしかに形も実の成りも揃ってるけど、成長点(いわゆる芽)がないじゃん。それもどの鉢も揃って。
なるほどそういう品種なんだ。大きくならない、都市のベランダで夏休みに観察するにはうってつけの品種なのかもしれないね。
確か担任の先生が大手食品メーカーの教育プログラムに応募したって言ってたな。そこがが開発した加工用の大きくならない品種なんだよな。
それはそれ。
夏休みに持って帰って、観察して記録をとる。
広い庭がある家庭ばかりとはかぎらないし。限りある時間とスペースの中での選択。
それについてコメントするのは専門が違う。
ただ。
僕の専門は農業。トマトがそんな小さなプランターでこぢんまりしている植物ではないと思ってるから違和感がある。
トマトは、条件を与えてやるとドンドングイグイ大きくなる植物だ。
栽培しやすいように改良した品種の教材用亜種なのかも知れないが、観賞用のように小さなプランターで数十センチで芽止まりするトマトには違和感がある。
こちらの思うように、都合良く、おとなしくしていてくれる。
それがトマトだけじゃなく「自然」に対するイメージになってしまわないか、それが気になる。
これは以前にも書いたけれど、ハリウッド版のゴジラはミサイルで殺されてしまうけれど、日本のゴジラは海にお帰りいただく。
この自然観の違いは、よく比喩として言われることだ。自然を超越者とし、何とか折り合いを付けて暮らしていくという東アジアのこの島の自然観は、古くさいものではなく、むしろ未来的だと、2009年の農業の現場にいる、僕は思う。
手に負えない自然が、マンションのベランダのプランターの中にあってもいいような気がする。
夕方、同級生の R ちゃんのバァバがたまごを買いに農場にやって来た。
「トマトが大きくならんじゃんネー。」開口一番それを言う。
ね!やっぱ変ですよねー。
いろいろやってたら、脇芽が出てきたからそれを大きくするじゃんネー!