(名前は仮名です。)
カズ君は、小学校3年生。
理由があって、お父さんとお母さんはどこか遠くに行ってしまい、おじいちゃんとおばあちゃんの3人で暮らしている。
ホタルちゃんは、小学校4年生。カズ君ちのそばの団地に住んでいる。
カズ君とホタルちゃんは仲良しで、学校が終わった後いつも団地で遊んでいた。
団地には近くで養鶏をやっているおじさんとおばさんも住んでいた。団地から少し行ったところに鶏小屋があった。
午後になるとおばさんが鶏小屋がある農場から自分んちの洗濯物を取り込みに戻ってくる。
カズ君とホタルちゃんはときどき、仕事に戻るおばさんの軽トラの荷台に乗り込み農場に遊びにいった。
農場にいくとおじさんがにわとりの仕事をしていて、ふたりは農場の犬と遊んだり、たまご詰めの仕事を手伝ったりした。
ホタルちゃんはしっかりものの4年生だから、たまご詰めの仕事も根気よく手伝うのだけれど、カズ君はやんちゃな3年生、じっとなんかしてられない、すぐにあきて裏の作りかけの鶏小屋の丸太によじ登ったりしたくなった。
おじさんとおばさんはにわとりを飼っているので、普段はどこにも出かけないのだけれど、年に一度、海に泳ぎにいった。その日だけはにわとりたちの世話を朝早くに片付け、一日海で遊んだ。
ある夏、ホタルちゃんも一緒に海に行くことになった。
カズ君は、海に行ったことがなかった。クラスで海に行ったことがないのはカズ君だけだった。
そのことを知ったホタルちゃんのお母さんが、おばさんに話をして、おじさんおばさんホタルちゃんカズ君の4人で海に行くことになった。
その朝、にわとりの世話を終えて準備が出来たおじさんおばさんの車に乗り、4人は出発した。
もちろんカズ君はもう暗いうちから起きて、何度もおじさんのうちの前まで様子を見にきていたのだけれど。
4人が住んでいる村は、海まではとても遠い山の中なので、山を下り街を抜け高速道路を走りまた峠を越えて、随分時間がかかった。
途中高速道路の出口で渋滞になった。ホタルちゃんはじっと我慢した。カズ君はいつもなら絶対我慢なんか出来ないけれどこのときだけは我慢した。
渋滞をぬけ、川を渡りもう一つ峠を越えると、海に着いた。
お昼ごはんの時間を過ぎていたけれど、もう我慢出来ないカズ君たちの様子を見て、おじさんは先に泳ぐことにした。
ザブザブと海に入っていったカズ君が最初にしたことは、海の水を飲むことだった。
「しょっぺー!」
カズ君の大きな声が浜に響いた。
ひと泳ぎして、浜茶屋でみんなでラーメンを食べた。かき氷も食べた。
石がごろごろしている浜だったので、おじさんはその浜茶屋で磯遊び用の靴を買うことをすすめた。カズ君はおばあちゃんからもらったおこずかいで磯足袋(いそたび)を買った。
それからまた遊んだ。ずーっと泳いだ。少し陽がかたむいてくると魚が姿を見せるようになった。それでまた二人は大喜び。最後までよく遊んだ。
「さて。」とおじさん。「ほら、もう君たちだけになったよ。」とおばさん。
薄暗くなるまで夢中で遊んで、浜は誰もいなくなっていた。
シャワーを浴びて、温泉に入って、小さな食堂で晩ご飯を食べた。
カズ君とホタルちゃんは、おばさんに言われて公衆電話からそれぞれの家に今から帰ると電話をした。
帰りの車の中でぐっすり寝た。
何日かして、おじさんは道ばたの畑でトラクターをかけていた。
川で泳いできた小学生の自転車の一団が通りかかった。
そのうちの一台が止まり、こっちを向いている。カズ君だ。
カズ君は足をこっちに向けて伸ばしている。何だか変なかっこうだ。
何だろうと思い、トラクターに乗ったままよく見ると、磯足袋をはいている。その足を思いっきり伸ばしこっちに見せているのだ。
真っ黒な顔で にかっ! と笑ったかと思うと、何も言わずまた自転車に乗り、友達を追いかけていって、その群に吸い込まれていった。
ヒグラシが鳴き始め、入道雲のてっぺんが赤く染まりはじめた夕方のことだった。
・・・・・・・・・・・・・・
それから何年もたった。
おじさんとおばさんんちには子供が産まれ、ホタルちゃんは先生になった。
いつしか見かけなくなったカズ君も大人になり、どこかの街で元気に暮らしているのだろう。
おじさんとおばさんは年に何回か「ひよこにさわろう」という会をやり、農場を子供達に開放している。
それはあの真っ黒な顔のカズ君の、一瞬の笑顔に会いたいからなんだと思う。
夏が来ている。
きっとどこかで誰かが にかっ! と笑っているはずだ。
暑いです。ご自愛下さい。