本名/鈴木こう
生年月日/1972.8.8
血液型/A型
星座/獅子座
干支/子(ねずみ)
動物占い/たぬき
細木数子の六占星術/土星人の陽(+)
少年時代の夢/保育園のせんせ。動物園の飼育係(いつかムツゴロウ王国で働く)。大工。プロレスラー(ホワイトタイガーとしてデビューしよう)。拳法使い(中国に渡りたい)。プロ野球選手(巨人と中日どっちにしよう)。フォークシンガー。
今会いたい人/ドーナル・ラニー、野田知佑、魚柄仁之助
会いたかった人/野口晴哉、ジョルジュ・ブラッサンス、クロード・モネ
バイト歴
■学生時代:魚市場、便利屋、土方雑用、運送屋仕分け、喫茶店、貸別荘清掃、出版社手伝い、塾講師、引越し屋、法面工(のりめんこう、山の斜面をセメントで固める)、居酒屋皿洗い
■フランス時代:一日通訳(日仏)、中華料理屋皿洗い、薬物実験台、ベビーシッター、プチガイド(女優万田久子さんを空港からホテルに御案内)
■その後:うどん屋、イベントスタッフ、町工場、窓ガラス清掃
鈴木こう年譜(自作)
1972年誕生
8月8日、東京は調布の病院で生まれる。その後10年かけて4人の子供をもうけることになる鈴木家の最初の子。社会主義者の父親は当時まだ哲学を学ぶ大学院生。母親は養護学校の教員。この人の稼ぎが我が家を支えて来た。
保育園時代
父親は「お父さんはロンブンを書くんだから静かにしていなさい」と度々宣言してはおっかない顔で机に向かっていた。いつもクラシックがかかっていた。どこがいいのかさっぱり分からない音楽だった。音楽に特別興味はなかったが、テレビ番組「解決ズバット」のギターを弾く姿にはシビれた。
1979年〜 小学校時代
合唱や合奏が大好きだったが、学校の先生はピアノを習っている奴を露骨にヒイキするので悔しい思いをする。家に帰ればクラシック、ますます反感を強める。
5年生になる春休み、退屈紛れにお年玉で、ふと、海援隊のカセットテープを買った。これが全ての始まり。「思えば遠くへ来たもんだ」「故郷いまだ忘れ難く」「俺の人生真ん中あたり」など、まだ体験もしていない世界が妙に沁みた。その素晴らしさを友達に語るが誰にも理解されず。しかしそんな僕を見ていた祖母がある時親戚からフォークギターを貰って来てくれた。弾けるようになるまでは友達には黙っておこう。秘密の特訓が始まる。
1985年〜 中学校時代
野球部で丸刈りにされながらも左手指先のタコを密かに誇りに思うギター少年の日々を送る。中1の間にスリーフィンガーまでマスター。しかし教えてくれる人も対等に演奏できる仲間もなく孤独感を募らせる。当時アコースティックギターは殆ど死語ならぬ死楽器で、スリーフィンガーまで行ってしまうとその先を学ぶ手がかりが殆ど見当たらない。相変わらずクラシック一般には興味がなかったが、クラシックギターはもの凄いということに気づき始め、近所のギター教室に通い始める。フォークの癖をもつ僕を先生はクラシック型に「矯正」しようと、気持ちのいい曲を弾かせてくれない。クラシックギター自体は好きになったが、先生と教室は退屈で、長続きしなかった。海援隊、かぐや姫、さだまさし、中島みゆき、ふきのとう、初期の長渕剛、初期のアルフィー、サイモン&ガーファンクルなどを聞き漁る。
1988年〜 高校時代
つぶれかけていたギター部を立て直しOB達から"メシア"と呼ばれる。学校、OB、親達などから手厚い保護を受け、大所帯で何かと華やかなブラスバンド部を"敷かれたレールにのったサラリーマン集団"とみなし、運動部の目立ちたがりたちが文化祭の時だけ結成する軽音同好会を"単なるハンパ者"と軽蔑しながら、弱小ギター部のきりもりに必死になるが、自分自身の進歩に関してはかなり行き詰まり始める。そんなある日、楽器屋でたまたま目にしたチラシをたよりに、シンガーソングライターのあおやぎとしひろ氏が開いていたアコースティックギターセミナーを訪れる。初めて見るミュージシャンの部屋、様々な楽器、びっしりと棚に詰まったレコード。入門を即決。ここで中川イサト、ブルース・コバーン、リチャード・ラスキン、ステファン・グロスマン、ゲイリー・デイビス、ライ・クーダー、ジョセフ・スペンスなど様々なフィンガースタイルギターをはじめ、日本のフォークからワールドミュージックまで世界には本当に色々な素晴らしい音楽があることを学ぶ。プロのミュージシャンになりたいという思いを強める。卒業間近、仲間とブルースバンド"バード"を結成、受験どころではなくなる。
1991年〜 浪人時代
卒業直後、あおやぎ氏が結成した"チープチーパーズ"に参加。お前のギターはつまらないと、突然マンドリンを持たされマンドリン奏者としてデビュー。二つのバンドで何本かのライブに出演するが、このままでやって行けるのかと猛烈に不安になり、一人でじっくり考えたいと、どちらのバンドも脱退。八ヶ岳山麓の貸別荘地帯で泊まり込みのバイトをしてしばらく過ごす。色々あったすえ、やはり大学で色々勉強してみたいと受験。東京都立大学夜間部に入学。
1992年〜 大学時代
この頃から劇場に通い芝居を見始める。学校ではよく分からないままにフランス文学科を選ぶ。誘われるままにチープチーパーズに舞い戻り演奏を続けるが音楽をやっていくことについては迷い続け、何よりどういう音楽をやりたいのかが分からなくなり、内心では殆ど諦めていた。物書きになりたいと漠然と思いながら何も書けず、芝居をやってみたいと思いながら行動に移せず、哲学科の授業に一番熱心に通うが、具体的にこれからどうして行こうか皆目分からず、焦るばかりで勇気のない自分に悩みは深まるばかり。とにかく一番頭デッカチな時代。行き詰まりを打破しようと外国行きを考える。旅行者としてではなく、一定期間暮らしてみたい。一年間アルバイトで金を貯めたすえ、フランスを目指す。出発直前に見たドーナル・ラニーのライブに圧倒的な衝撃をうける。
1997年〜 フランス時代
生まれて初めての外国行き。日本に一度も帰ることなくこの地に2年4ヶ月滞在することになるとは思ってもみなかった。悩んでいても何も始まらない事だけが身に沁みて分かった。とにかく何でも体験してみよう。体当たりの日々が始まる。ブルゴーニュ地方のディジョンという街の語学学校に入る。分からない事を気にせず、分かった事を素直に喜ぶ。シドロモドロのフランス語でとにかくしゃべる。学校の演劇部に入り、フランス人以外の様々な国の友人達とカタコトのフランス語で即興をベースにした芝居作りをする。顧問のイタリア人教師セバスチアーノ・トマルッキオが芝居の最初の師となる。新鮮な体験を重ねるうち、小さな自分の小さな行動は決して非力ではなく、動けば必ず何かが動き出すことを実感。同時に芝居をやりたいという素直な希望に正面から向き合えるようになる。
2年目はパリのシャンゼリゼにあるロン・ポワン劇場付属の演劇学校に様々な壁をクリアして何とか入学。まだ若く、小さな学校だったが、僕は最初の外国人だった。経験がないということが逆に強味になった。できなくて当たり前、とにかくやるしかない。ガムシャラにやった。時間とお金の許す限り芝居を見る。驚いたのは芝居をやると決めて動き出した途端、自分は決して音楽を捨てられないと実感した事だった。友人に楽器を借り、26歳にしてバイオリンを始める。余り熱心に練習するので呆れた友人はバイオリンを僕にくれた。少しずつ言葉を覚える中でジョルジュ・ブラッサンスの素晴らしさを知る。一年間の学校が終わり、そろそろ日本に帰ろうかと思っていた頃、運命のイタズラで映画「タクシー2」への出演が決まる。この撮影のためフランス滞在が4ヶ月延び、念願のアイルランド旅行が実現。旅の途中でイギリスに渡り、二人の楽器職人を訪ねる。ドーナル・ラニーの楽器を作っているピーター・アブネット氏にブズーキを注文。ついにこの楽器を手に入れる。1999年末帰国。確実に人生を変える旅だった。
2000年〜 大阪へ
大阪の劇団"南河内万歳一座"に入りたい。全く歓迎されていなかったが、強引に大阪に引っ越し。一年後には正式に劇団員になる。大阪の地、そして劇団という新しい環境にフランス以上のカルチャーショックを受ける。つくづく退屈しない人生だ。演劇そしてバイトの怒濤の日々の中、細々と音楽を続ける。
三上ゆうへいとはふとしたきっかけで知り合い、互いのステージを見たり、たまに会っては酒を飲み、いつか一緒にやってみようと言いはするものの、一体いつになるのやらという疑問符が互いの胸に浮かぶという関係が数年続いていた。2005年暮、いいかげんやってみるか、まずは楽器を持って遊んでみよう、そう言って音を出す。思いもよらぬ化学反応が起こり、二人で大いに盛り上がる。ひと月後には初のライブが待っていた。
2006年〜 命名"サラバ楽団"
もう、後には、引けない。

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