「午前中で建築は終わり、そのあとは楽器に専念。原則としてね。」
Y先生はそう言う。しかし、やはり、原則には必ず例外がある。
楽器作りをしている最中にも電話がかかってくることがある。
埒のあかない相手、理不尽なことを言われることもあるようで、ときどき携帯電話を握りしめて「ガオーッ」と吠えている。
建築の世界というのは多くの人が関わり、多くの物とお金がそれを巡って動く、なにかと大掛かりな仕事であること、これは素人であってもある程度想像がつく。
多くの人の思惑や利害がからむ、俗な要素を多分に含んだ世界でもあるだろう。(この点、演劇にも似ているかもしれない)。
建築に対する先生の態度は複雑だ。長年この道でやって来たという誇りとともに、この世界にはほとほと疲れたという思いもあるようだ。
そうした、俗な世界ともガッツリと関わる建築に対して、楽器作りは言わば、先生にとっての聖域であった。
金のために作るのではない。作りたい物を作る。頼まれた物を、相手に応えるために作る。そういうスタンスでやって来た。たった一人で。
「60になるまでには建築にけりをつけて、楽器に専念しようと思ってたんです。」
そういう先生は今年で60歳。
楽器に専念するということは、楽器作りをビジネスにするということでもあり、純粋な聖域ではなくなるということでもある。
どうやら先生はしばらく建築をやめることはなさそうだ。色んな意味で気持ちの整理がついていないはずだ。
しかし、僕を雇うからにはそれなりに金も必要になる。
ずいぶんと頼りない「お手伝い」ではあるが、コイツを呼び寄せるということは、明らかに楽器作りを拡大しようというアクションなのだ。
60歳。
先生は聖域から一歩踏み出そうとしている。

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