ホテルから大牟田駅に向かう。少し早かったが、タクシーで出かけた。これは正解だった。大牟田駅に着くと一般公開の会場行きのシャトルバスに乗る人たちの行列ができていた。三池港行きは大牟田市役所のマイクロバス、三川坑行きと循環バスは西鉄バス大牟田の路線型貸切バスが横付けされていた。さっそく並ぶも、前に10人以上はいた。

路線型なので座席数は少ないが、前から2番目に座れた。でも前車輪の上なので足が窮屈だ。発車すると私が知らない道を通って行く。

まずは一気に県境にある万田坑跡まで乗り通す。ここは荒尾市になるが、立派な観光ステーションが作られ、NPO法人が運営にあたっていた。

西鉄バスは4台チャーターされていた。乗ったのは1号車だった。

万田坑は昭和26年には閉山しているが、以後も排水や換気のために稼働していた。昭和38年の三川坑炭塵爆発の際には、ここから救助隊が入鉱している。万田坑の見学は女性のボランテイアガイドが付いてくれた。彼女のお父さん、お祖父さんとも三池炭鉱で働いていたそうだ。

立坑の櫓。炭坑の櫓は2つあるのが普通だが、撤去した一つの立坑の鉄材は北海道の三井芦別坑に転用されたとのこと。

立坑から上がってきた石炭は、ここから搬出された。

立坑上の櫓を下から眺める。
<半世紀ぶりの邂逅>

万田坑の敷地の下を潜っていた桜町トンネル。長さは150m程だが、手前の荒尾市と抜けた先の大牟田市を結ぶ大切な人道だった。実は、小学生のころ一人で自転車で探検に出かけ、反対側のトンネル入口までやってきたことがある。ひと気がなかったので怖くなってくぐらなかった。抜けていれば、原万田の炭住街、商店街があったのだそうだ。

そのトンネルの上部。かつては線路がたくさん横切っていた。所々に明かりとりの天窓が開いている。三池鉄道は電化されていたが、ここで蒸気機関車(B1タイプ)を目撃した。カメラを持っていれば撮っていたのに悔やまれる。トンネルはつい最近まで現役だったそうだが、崩落の危険があるため現在は通行できない。
あの時から半世紀が経った。思いがけずの再会だった。いやはや・・。

万田坑の見学の後は、三池鉄道廃線跡ウオーキングである。2区間に分かれており、まずは宮原坑までを歩く。ここからは別のボランテイアガイドが付いてくれた。線路跡にはゴムが敷かれていた。万田駅の方向(荒尾方)を望む。

枕木や線路はほとんど残っていないが、所々に思い出したように遺構がある。

諏訪川を渡る。橋りょう部は通行止めで並行する道路へ迂回した。みごとなイギリス積レンガの橋脚だ。

宮原坑まで歩いてきた。線路は切り通しで通過していた。立派な複線電化区間だったが、面影はない。左側が宮原坑跡。
ここで昼食のため休憩となった。NPO法人が作ってくれたお弁当(500円)を食べた。ボランテイアの方々といろいろと話が出来た。宮原坑からは電車保存庫までの行程で線路跡を歩く。

廃線跡からは少し外れるが、三池集治監跡の塀(刑務所)を見に行く。今は三池工業高校の敷地になっている。明治〜大正時代の三井炭鉱は囚人労働を伴うものだった。

軌道敷に戻る。踏切のあとだ。

古レール再用の陸橋も残っている。

廃線跡はこのあたりで終わる。枕木が残っている。産業遺産というとどうも古い時代のことを想像しがちだが、三池鉄道はつい最近まで現役線だったので施設はそんじょそこらのローカル線より近代的だ。コンクリート枕木も多用されていた。めくったレールは島原鉄道へ売却されている。ここから先は工場の敷地内に入るため廃線跡をたどることはできない。その先は三井化学の専用線として現役線として稼働している。

廃線跡ウオークの終点は、電車保存庫である。エスジーケミカルという工場の中に保存庫はある。年に1回の一般公開の日だけ見学することができる。

エスジーケミカルの道を挟んだ北側から生きた三池鉄道が始まる。ここが現役線の終端部になる。

昭和11年の東芝製の凸型電気機関車。同型機は名鉄や京成などにもあった。

エスジーケミカルの工場内ロータリーから再びシャトルバスに乗り込む。

シャトルバスは宮原坑、万田坑に立ち寄る。先ほど見学した万田坑の櫓が見える。

バスは荒尾の街、四ツ山、三川町を通って、サンデン(三川電鉄変電所)へやってきた。ここはパスするが、時間があったので下車して写真だけ撮ってきた。中ではライブをやっていた。
サンデン停車後、次はいよいよ三川坑である。

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