3日目は、沖縄都ホテルで目覚める。修学旅行生も泊まる大衆的ホテルになっていた。朝食前にいつものように散歩。ホテルの敷地内には沖縄電気軌道の遺構が残っているという。この電車の起点は海岸に近いロワジールホテルそばの通堂で、首里丘陵を登った首里が終点であった。しかし、1933年には廃線となり、わずか20年しか営業しなかった。

那覇の中心街から首里城めざして上ってゆく途中に沖縄都ホテルがある。1974年開業の近鉄が保有するホテルである。

一番年長と思われるホテルマンに遺構の存在を尋ねた。ホテル駐車場の外れにあるという。古い写真によると、この付近は蛇行しており、ちょうど画面の右側から左側にかけて勾配を上っていた。左端は都ホテルの建物。

ホテル8Fから勾配区間を俯瞰する。右下の駐車場の1本だけニョキニョキ伸びた樹木の根っこのあたりに橋脚の遺構がある。

雑木林の中には歩道があったが、「ハブに注意」とあったので引っ返した。このあたりは、首里城地下に海軍司令部があったため、地形が変わるほどの「鉄の暴風」に見舞われている。

ホテルの客室からは那覇市内が一望のもとに見渡せた。
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3日目にバスが変わった。中部観光のバスでガイドさんと同じ会社になった。大型バスに17名なのでゆったりしていた。

最初はおもろまちにある免税店(DFS)。かつて高級将校クラスの住宅があった米軍基地が返還され、那覇の副都心として再開発されている。DFSには興味がないので隣接するゆいレールのおもろまち駅にモノレールを見に行った。
この後は、糸満市街地の海岸線にできたバイパスを通って南部へ向かう。目的地が近づくと始まったガイドさんの説明には殺気迫るものがあった。

「ひめゆりの塔」とは、右側に見える小さな石碑をさす(最初は木製)。背後は平和祈念館になっている。200余名の学徒隊は半数以上が死亡した。現在では5名だけになった生存者のおばあさんが説明に当たってくれた。

次は「平和の礎」を訪ねる。ツアー参加者の中の一人が名前を探したいという。探すための端末が用意されており、場所が印字された紙片が出てきた。ガイドさんとともに、みんなでそこへ出向いた。「礎」は<いしずえ>と読むが、沖縄ことばで<いしじ>と発音する。

あす6月23日は沖縄戦が終結した「慰霊の日」。学校は休みとなる。沖縄県主催の式典の準備もほぼ終わっていた。よく日テレビ中継を見たが、とおりいっぺんの首相のあいさつに知事も諦めきっている印象があった。

平和祈念公園の先には真っ青な太平洋が広がる。断崖絶壁(海岸段丘)になっており、米軍に追い詰められた住民が飛び降りて命を落とした。

売店で買った月刊沖縄社「沖縄戦〜衝撃の記録写真集」(1000円) ジュネーブ条約を象徴する生きた教材だ。この少女は生存しておられる。

平和の礎のあとは、おきなわワールドへ。一気に現代の世界へ。昼食とエイサーと、玉泉洞(鍾乳洞)の見学。涼しい洞窟を30分余り歩いたが、地上へ上がると34度の世界になった。

新原ビーチでグラスボートに乗る。船外発動機の付いたボートで、天然の防波堤になっているさんご礁の手前の海を航行する。海中を覗き込み熱帯魚を見学した。

グラスボートの業者はいくつかあるようだったが、クラブツーリズムと契約した業者だった。船体には「近畿日本ツーリスト」の塗装が施されていたので、分社化される前の相当古い船体なのだろう。

本島南部から那覇空港へ戻った。ここでガイドさんとはお別れ。3日間お世話になった。

折り返し成田行きとなるSKYのB3が成田からやってきた。

ブリッジからはANAのジャンボ機が見えた。退役間じかである。左には復刻塗装の南西航空機(JTA機)が見える。

モヒカン塗装のB7も止まっていた。

「またん、めんそ〜れ」

到着時と同じく、南国の美しい花々が見送ってくれた。永久に平和な島でありますように!
*観光記は、「
鉄道のページ」で

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