京成電鉄市川真間駅の北側に、京成電気軌道の創立者である本多貞次郎の頌徳碑が建っている。大正11年10月に銅像として建立されたが、第2次世界大戦中の金属供出で銅像部分は存在せず、いわれを記載した銘板だけが残っている。徳富蘇峰の筆による顕彰碑だが、漢文調であり素養がないと判読しがたい。
京成電気軌道は大正元年11月に押上−市川仮駅(今の江戸川駅)間を開業した。その後路線を千葉県に伸ばして行き、大正15年に成田花崎町まで開通させる。本田は初代社長をつとめるなど、いまの京成の基礎を築いた。その功績を顕彰して建てられたものと思われる。
しかし、銅像建立後の昭和3年、浅草延長を計画する段階で「京成疑獄事件」を起こし、贈賄容疑で逮捕される。この時は三木武吉や正力松太郎なども同じ汚職事容疑で起訴されている。戦後銅像が復活しなかったのはこのせいだろうか。
なお、頌徳碑が建っているあたりは京成の遊園地や本多の自宅があった。また、社長と同時に市川町長も務めている。
いまは市川市医師会の会館があり、その敷地の門前にひっそりとたたずんで、本多にとっては京成電車を眺める毎日である。
市川真間駅1番線ホーム横にある「本多貞次郎頌徳碑」。背後の建物は市川市医師会館である。
「本多貞次郎君銅像」とあるが、銅像は金属供出で現存しない。左側は徳富蘇峰が書いた顕彰碑文である。

1