江戸時代の江戸名所図絵や曲亭馬琴編纂の兎園小説などに登場する
旧下総国の立石村にある「立石様」を訪ねてみた。
京成電鉄の京成立石で下車。早速、駅員に場所を尋ねるが、名前も知らぬという。仕方ないので、駅前にある葛飾区の施設に立ち寄る。最初に応対してくださった初老の方もキョトンとした様子。地元にはあまり知られていないらしい。そのあと奥から出てこられた中年の職員が丁寧に道順を教えてくださった。目指す所は葛飾税務署の近隣で、立石宮元町内会館に隣接する児童遊園の片隅らしい。

薄汚れた看板を見つける。

石枠に囲まれた中に「立石様」はあった。

雑草に埋もれた何の変哲もない石

「立石様」の正面には小さな石の鳥居が・・・

大正五年の銘がある。

石の裏手の石碑には
江戸期の名主「立石新右衛門」の名が・・・

小公園の入口の鳥居
往事は「立石祠」とも言ったらしい。
往古のミステリースポット「立石」
現代でもパワースポットになっているのだろうか?
wikipediaで調べてみた
<以下
ウィキペディアから>
「立石様」は【立石八丁目37番17号にある。現在は児童公園に併設する祠の中心に鎮座している。付近にかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様、千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれたと推定されている。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。
江戸時代には高さ60センチ以上あり、「根有り石」とも呼ばれていた。名所として諸本(兎園小説、明細帳、江戸名所図会など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいる。
後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたことや地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況である。
京成立石駅構内にある江戸時代の立石の図では、中央で男性が屈んで覗いている。古墳時代には既に拓けていたと考えられており、立石様の周辺には古墳(南蔵院裏古墳)が存在していた(この古墳は明治時代に破却された)。立石様自体も近郊の古墳の石室と同質の房州石(凝灰岩)であることが解っており、このころ千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれ、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。
<管理人補足>
古墳時代の遺物というのが、現代の解釈です。古墳を研究されている方の
HPでも「新編武蔵風土記稿」を引用した興味深い
記事をみつけました。

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