「部屋のなかで放し飼いなんて、部屋中汚れて滅茶苦茶になりますよ。ペットショップでケージが売ってますから。そのなかで飼うほうが彼女の為にも幸せですから」
という善意の中年女の助言も空しく、僕は彼女を放し飼いにした。僕にはそのほうが彼女の為だと思えたから。彼女だなんて、兎ですけど。あの善意の中年女の言葉遣いに影響されてしまっているんだ。
善意の中年女に出会ったのは、近所の恩賜公園の中だった。犬を遊ばせる主婦たちや鉄で出来た遊具で虚ろな目をして遊ぶ子供たちのあいだをすり抜けて、僕はあまり人気の無い池のほとりへやって来ていた。そして独りで考えていた。あの医者が自分とこの病院ではカウンセリングはやらない、とあれ程までに主張するのは何故なのだろう、過去にそれが為のトラブルでも有ったのか知らん。オレを今すぐカウンセリングしろ、でないとこの女を殺す、とか人質をとって立て籠る患者が居たりとか、そんな事がねぇ、とか思いながら考えながら、池のほとりをぐるぐる歩き回っていた。
池の水を濾過し循環する為のものだろう、物凄い騒音をたてて稼働している大きな箱形の機械の脇に、四方に網を張った汚い小屋があるのが目についた。なかに居るのは七、八羽ほどの兎たち。大きいのや小さいの、黒いのや白いの、動き回ってもぐもぐしているのや微動だにせず目を閉じているの、色んなタイプの兎が居て、彼等の健気さ、可愛さに夢中になって、僕は腰を屈めてそれを見つめていた。
突然背後に異様な臭気とひとの気配を感じて振り向くと、そこにはピンク色のポリバケツを携えた異様な風体の女が立っていた。錨模様の派手な上着の下に鎖模様の派手なシャツを着て、豹柄の派手なスカーフと金色の派手なネックレスを首に巻き、黄色い人工皮革のミニスカートを履いて唇には真っ赤な口紅を塗りたくった中年女。全身から漂う過剰なパフュームの匂いが、公園内の自然事物と見事に拮抗している。勿論気味が悪い。
「里親さんを募集してるんです。そこの看板を見て下さい」中年女が指差した先、小屋の屋根につけられたバルサ材の看板には、マジックインキによる手書きで『里親募集中 公園内に捨てられたかわいそうなウサちゃんたちです』と書かれている。「あなたが世話をしているんですか?」中年女はポリバケツを手に小屋へ近付き、しぜん小屋の真正面に腰を屈めている僕との距離がさっきより近くなったので、パフュームの激烈な攻撃に咽せそうになりながらも僕が聞くと、中年女はバケツのなかから干し草を掴み取り、小屋のなかへ投げ入れつつ答えた。「昔からここにはウサちゃんを捨てるひとが多いんですよ。たまに元気なままのも居ますけど、大体は病気のウサちゃんたちです。私はウサちゃんたちが苦しそうにしてるのを見てられなくって、病院に連れて行ったり御飯をあげたりしてますの。本当は家に連れて帰ってあげればよろしいんでしょうけど、こうしてここで飼ってあげれば、引き取り手も見つかりますし、心ないひとたちへの啓発にもつながりますでしょう?公園の管理人さんたちも協力してくれて、こんな立派なおうちを造って下さいました」
僕の通っていた小学校にあった鶏小屋のほうがもう少しまともだったな、この人は何をしてこれを立派なおうち、と判断するんだろうな、と少し不思議に思いながらも、僕はある一羽の兎から目を離せなくなっていた。
すこし汚れてはいるが、その兎は小屋のなかの他の兎に比べると一段と白かった。さっきからぴくりとも動かずに目を閉じたままで、眠っているのだろうか、善意の中年女が干し草を与えてもまるで興味を示さない。そして一際目立つのは、兎の右耳にはその輪郭を縁取るように、なにか金属様の飾りがつけられているのだ。
「あれ、何ですかね、あの白いうさ…ウサちゃんのあれ。耳んとこに何かついてますよね」
「ああ、あの子は昨日ここへ来ましたの。どういうつもりなのか、耳に沢山穴を開けられてて、あれピアスなんですよ。人間のする事じゃありません。あんな事されたら雑菌が入って、寿命を縮めるだけなんです。可愛いと思ってやったのかしら、どうせ捨てちゃう癖に。あの子の事を思うと私もう涙が止まらなくて。ほんと人間のする事じゃありません」
なるほど、兎の長い耳にピアス。それは良い、こいつの元飼い主はセンス有るね、素晴らしいね、と口元がほころんでしまうのを必死で抑えて、「ううっ、それは非道い」などと白々しくも呟きつつ、数分後には僕はそのピアス兎を抱かせてもらっていた。
軽い、でも暖かい。実に愛おしい。
「その子女の子ですからね、気をつけて下さいね。定期的に病院へ連れていってあげて、私にもきちんと報告して下さい」中年女は別れ際にそう忠告したが、兎が女の子だと何を気をつけるのか、そこんとこが今ひとつ解らないまま、それでも僕は「はい、解りました」とか適当に答えて、そして、ピアスで右耳を飾った白い兎を家に連れて帰った。
家のなかでゆっくり観察してみると、兎の右耳に飾られたピアス群は配置にも規則性が有り、蠍や蝶、鳥などの動物を象ったそれぞれの細工も実に精巧で、善意の中年女が嘆くようにそれほど非道い仕打ちとも思えなかった。むしろ真白な毛並みに映える銀色のピアス群が、兎の元々の美しさを更に強調しているようにも見えるのだ。
一個ずつ五ミリほどの間隔を空けて丁度三十個ピアスは付けられていた。角の丸いボタン状のシンプルなものと、虫や動物、髑髏などを象った象徴的な細工がされたものとが交互になるように配置され、それが耳の周辺を、ぐるりと環を閉じるように並べられていて、見ようによっては何か意味が有るような、例えば輪廻転生とか進化の過程とか、そんな物語性をも読み取らせてしまう、絶妙の配置であった。
ぬるま湯で湿したタオルで身体を拭いてやり、冷蔵庫にあったキャベツの葉を与えると、さっきまで目を閉じて微動だにしなかった兎も途端に元気になって、瞬きを繰返しつつキャベツを貪り喰った。元気になると鳥が羽を動かすように右耳をくるくるやるし、観察したところ膿んでいたりする様子も無い。さっきの中年女は雑菌がどうのとか言っていたけど、痛がっているわけでも無いし、人間に開けたピアスの穴だって雑菌が入って膿むときは膿んでしまうのだから同じ事じゃないか、と独り安心して、というのは兎を連れて動物病院なんて行くのは面倒だったから安心して、僕は兎との生活を始めたのだった。