大原の駅を降り、房総半島の中心に向かって夷隅鉄道という2両編成の電車で行く。田園風景のなかを揺られること30分、大角駅に到着する頃には午後になっていた。
大角は戦前まで宿場町としてかなりの賑わいをみせていたということだが、今では往時の賑わいを感じさせる風物など何一つ無い。立ち並ぶ大きな民家には今や人気も無く、かつては駄菓子や清涼飲料を売っていた商店の入口も閉じられたままになっている。途中豪奢な瓦屋根の魚屋を見つけ、ようやく人の気配に安心したが、奥のほうで店の主人がテレビを見ているだけで、やはり客の姿はひとりも見かけられなかった。
真冬の午後に、このように人の気配も絶えた田舎町を独りで散策している俺にとってこの場所はいかにもふさわしいような気さえしてきて、なんだか安らかな気持ちにさえなってくるから、いや、だからこそ俺は10年ぶりにこの大角の町に来てみようという気になったのであって、それは全体不思議な事では無いのだ。
あれは初夏の陽射しだった、と思う。俺と谷津子は大原の海水浴場へ行ったついでに、このローカル線の終着駅まで足を伸ばす気になったのだった。大原では人が多過ぎた。あの頃の俺達には陽光と漁港の活気にまみれた大原の賑わいよりも、海から少しばかり奥まった大角のほうがふさわしいような気がしたのだった。大原で一泊する気にはなれず、もう夕暮れになってから夷隅鉄道に乗り込んだのだ。少し当てが外れた、と思ったのだと思う。あの頃の大角は、今とは違って人々の影が沢山揺らめいていた。商店や喫茶店、パチンコ店が軒を連ね、主婦たちや子供たちが西陽の射してきらきらとした通りを、幸福そうに家路へと急いでいた。いまは真冬で、あの時は夏だった。季節の違いも有るのかも知れない。しかしあの時も通りを行き交うのは地元の住民とおぼしき人々ばかりで、他所者めいた観光客は俺達だけだった。大体海水浴場も漁港も無い大角の町まで、わざわざ観光しに来るというのも既に当時から奇特な事だったように思われる。さて、あの子供たちは一体何処へ行ったのか。
俺達は安そうな旅館に部屋をとり、路地の奥にあった居酒屋でビールを飲んだ。魚は旨く、夜風は熱かった。旅館は貧しいつくりで、俺達以外に客も無かったが、年老いた主人が独りで部屋の支度をする様は、妙な清々しさを漂わせていた事を覚えている。玄関を入るとすぐに、巨大な姿見と柱時計が掛けてある宿だ。段々と薄れていた記憶が甦り、俺は今や独りでその宿の方角へ足を向ける。谷津子はもうここには居ない。あれからもうどれくらいの時間が経ったのだろう。別れる間際にあいつは『死にさえしなければ、またいつだって会える』と言った。俺はそれを信じていた。でもそれももう駄目だ。無茶苦茶だ。死んでしまったらもう何も出来ないのだ。
そう、あのライトバンが停めてある、元商店の角を左に曲がればそこが俺と谷津子の泊まったあの素敵な旅館だ。この商店も今では店を閉ざしている。しかし昔は木材で嵌めてあった窓枠が、アルミサッシに取り替えてあるところを見ればまだ人は住んでいるのだろう。屋内からは歌謡曲のイントロらしき部分も漏れ聴こえている。
しかし俺は知っている。もうこの角を左に曲がっても、あの旅館はそこには無いだろう。姿見も柱時計も、もう見ることは無いだろう。例えそこに家があったにしても、もうあの年老いた主人は居ないし、扉は固く閉ざされたままなのだ。その先の路地にあった居酒屋も、もうとっくに廃業してしまった。夜になれば風はますます冷たく、大角の住人は皆その冷たさに耐え忍ぶようにして歯を食いしばって眠る。俺がいま、行った事も無い大角という田舎町を旅するきっかけともなった、谷津子のことを思う度にそうするように。
というわけで、俺はまだ大角に行った事も無いし、今後房総半島を旅してみる気もさらさら無い。