ひき逃げ

2005/9/25 | 投稿者: losthouse

 四方の壁は白く、空気圧で開閉する仕掛け扉の表面もまた白く、白いベッドに横たわり、白いチューブに繋がれた兎の身体もやはり白い。
 兎がこの病室に運ばれてから二週間、今では兎の身体は初め会った頃の半分くらいの大きさになっている。僕はベッドの脇に立ち、兎にそっと合図を送ると、兎が口を開くのをしばし待つ。待っている間がもたずにポケットの中の煙草とライターをいじくり回し、当然ここは禁煙なのだ、と病院に入る前から頭では了解していた事柄が、身体全体に行き渡ってようやく指先に到達し、僕がポケットの中をいじるのを止める頃、兎が僕に気がついてその小さな口を開く。
 兎の声は滅菌された病室内で異様に大きく響く。怒りと苛立ちを僕に向け、しっかりとした口調で語りはじめる。

 「私の右耳は、金属の飾りで装飾されています。私の生きる様を他人に見せつけたくて、私は私の肉体をカスタマイズするのです。そうした時から私の耳には、今まで聞いた事も無い小さな囁き声が聞こえるようになりました。その声はまるで私の未来を暗示するように、不吉な言葉を囁きます。しかしその不吉な声を聞く度に、私は現在というこの瞬間を意識して、過去の一切は忘れ去られ、憎まれる為に在るのだと知りました。だから私は追憶という行為を拒否します。私の記憶は見事に修正され、今では意味を為さない記号の配列に純化されました。しかしそれで困った事も有ります。何故なら私には帰る路も家も無いのです。あなたが何者か知りませんが、関係性という概念が私には欠如しています」
 「僕は僕だよ、そして君は兎だ。」
 「私はあらゆる関係に絶望しているのです。全ての配列は、それがランダムであるにせよいずれ破綻します。私に認識出来るのは私という個体の属性だけ。人は皆無闇に他人との関係を求めて生きているように見えます。しかし私は一介の兎。絶望のなかで独りで生きる宿命です。それは私にとっては誇りでもあります」
 「僕を独りにするのか?」
 「あなたはもとより独りだった筈ですが。そして私も独りです。兎というのはそういうものです。あなたは過去と未来に執着している。そういった一切の煩悩を捨てて、過去を改変し、自らをカスタマイズして未来を生きるのです」
 「しかし記憶は捨てられない。特に僕のような人間にとっては、過去の記憶はいつまでもつきまとうのだよ」
 「澱ですよ。言葉を持った肉体の驕りです。頭脳を断片化して、言葉を記号へ落とし込むのです。やってしまえば簡単な事なのに。追憶が苦痛である事を、あなたは知る価値のある種類の人間ですよ」
 
 そこまで言ってから兎は目を閉じ、安心したような微笑を浮かべて眠る。彼等が兎に託したものは、小さな兎の肉体には荷が勝ちすぎていたのではないか。兎という動物は淋しいと死んでしまうのだと言ったあの女の言葉を信じるのなら、彼等が兎に望んだ精神は兎にとっては激し過ぎる。
 
 空気圧の扉が音も無く開き、半陰陽のナースがひとり現われる。腕時計を見ると、指定の時刻をもう十五分も過ぎていた。これから僕は右脚大腿部から独裁者の日記を取り出す為に、薬物投与と外科手術を受けなくてはならない。それはあの採石場のメリーゴーラウンドで、彼等が僕に託したものだ。
 果たして僕は、彼等の望み通り、彼等の強靭な意思を生きることなど出来るのか。昔も今も僕は代表選手向きじゃ無いし、身体が弱った兎に何を食べさせれば良いのかもわからなかった、無知蒙昧な人間だというのに。

 無音だった病室に、突然クラシック音楽が流れ出す。見ると天井からはボーズのスピーカーが四本吊るされていて、今は小さな音量でバッハだかビバルディだかを鳴らしている。
 ほら、僕はこの曲がバッハかビバルディかも知らないのだよ。それほど無知な人間なんだ。だから過剰な期待を寄せるのはやめてくれ。そんなに強く腕を引っぱらないでくれ。僕は日本地図上で、滋賀県の正確な位置を指し示すことも出来ないんだ。餃子の皮の包み方も知らないんだ。恩賜公園の恩賜って字も最近まで読めなかったんだ。漫画しか読まないんだ。中卒なんだ。だから僕に、そんなに重要な役目を背負わせないでくれ。 

 痛いよ、そんなところに注射するのは恥ずかしいよ。



トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ




AutoPage最新お知らせ