断絶日記

2005/9/23 | 投稿者: losthouse

グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」という短編小説を読んで、感激する。感動する。たまげる。
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「しあわせの理由」の主人公は少年である。彼は12歳の誕生日を境に、幸福感、無敵感に四六時中支配されるようになる。実は少年の脳には腫瘍が出来ていて、腫瘍がもたらす症状として、よろこびの感情を伝達するエンドルフィンの一種が異常な濃度で分泌されていたのだ。
彼は腫瘍の除去手術に成功するが、その奇妙な症状全体を把握しきれなかった医師の為に、癌細胞と共に幸福伝達物質もすべて取り去られてしまう。
以降慢性鬱状態に陥った彼は、三十歳になった時、未来の医療技術によりダミーの神経系を埋め込む事で感情の回復をはかろうとするが、擬神経を埋め込んだ彼はアイデンティティを喪失してしまうのでした。なんでそうなるかは読んでのお楽しみ。


主人公の一人称で描かれるこの小説は、全き人間性の探求の物語である。が、いわゆるブンガク的な「人間性」は省みられず、人間性とは脳の神経作用に過ぎないという前提が実に愉快なんである。
神経経路を合理的にデザインすることで自己を取り戻そうとする彼の姿はおかしくも悲しく、感動的であり、この小説は飽くまでクールに、読者の現実認識を揺るがし、自己の確立を迫る。
「しあわせの理由」は未来を描くSF小説であると同時に、少年の家出、独り立ちの物語でもあるのだ。本当に素晴らしい。


読んでいる最中、安部公房の「R62号の発明」とか「第四間氷期」を思い出していた。
「しあわせの理由」より約40年前に書かれた小説だが、冷酷で詩的な未来の描き方のやりくちがとても良く似ていると思った。
僕はSFが好きでよく読むが、未来を現実の絵解きのように描くSFもよくある。とゆーか多い。そんな小説は「あー面白かった」または「つまんねーな」でやり過ごせるものだが、安部公房の諸作や「しあわせの理由」はそれでは済まない。未来は現実の我々から切り離された異形のものとして聳え、我々の孤独を増幅しては未来への生き方の決断を迫る。
ほんとうに良いSFとはそーゆーもんだと思う。
SFに現代小説の活路を見出していた往年の安部公房がいまもし生きていて、「しあわせの理由」を読んだらなんと言っただろうか。そんな事を夢想して楽しんだ。


最後に、「未来とは」と題された、1960年の安部公房講演会速記録を無断で抜粋して、今日はおしまい。

「未来そのものは実現したら現在になってしまうのですから、結局実現しないものですが、このようにたえず消されて行く未来、つまりたえず否定されていく本当の未来は、個人の願望とかなりへだたりのある場合がしばしばあります。
 これを強引に個人の願望と、社会の願望を機械的にくっつけて、飛躍のない、日常性の連続の上に未来を予想したがる傾向がありますけれど、これは、人間の本能というより、弱さをもっているからだと思います。」
「未来像というもの、これは個人的な生物的な願望からは、絶対に類推のできないもので、これはおそらく、非常に断絶した、あるいは軋轢の多い場合があるかもしれないぐらい、またあるときは、非常に恐るべきものにみえるかも知れない未来であると思われます。」
「前に、『第四間氷期』を書いたのですけれども、あれはだいぶ誤解されまして、あれは、ユートピア小説だろうとか、あるいは、未来を悲しんでいるんだろうとか、いろいろな批評が出ましたけれどもそうではなくて、私の意図は未来は個人の願望から類推できないほど、断絶したものであり、しかもその断絶のむこうに、現実のわれわれを否定するものとしてあらわれ、しかもそれに対する責任を負う、断絶した未来に責任を負う形以外には未来に関り合いをもてないということなのです。
 それは一見、つらいことですが耐えなければならないことで、革命というものも恐らくそういうものだろうと思うんです。
 未来を凝視する能力を人間が与えられたことは、それだけ苦しみを与えられたことになるのでしょうが、その苦しみとか、よろこびとかが、対比的にあらわれるのではなくて、それ以外に未来とかかわりようがない、これとかかわりあわなければ、その人間は、うまく行けば、死ぬまで、なんとか現状維持できないこともないのですけれども、必ず、その人間は未来から裁かれるのです。」 



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