私自身、今までこのブログで私自身のつらいことを語ることを禁忌としていたが、誰しもつらいときは誰かの力に頼りたいときもあるかもしれない。
もちろん私も例外ではなく、今までそれだけつらいことを経験してきたからこそ、今の自分があるのではないだろうか。
しかしながら、現在の長岡の出向先の職場も、2年前にいたときと違って当時所属していた班と違う班に移動になってしまったため、その結果、班の雰囲気に順応できないでいるが、その辺も考え方を変え、他所者を歓迎しない班と割り切り、時間までいられればそれでもかまわない、という考えで日々の仕事をこなすことにしたが、それでも片手で数えられる人数の理解者がいるから、その人たちの支持が励みになっており、感謝に尽きない。
個人的には、2年前にいたときと同じ班で仕事をしたかったのは言うまでもないが…
そう、思い出せば今から6年前の今ぐらいの時期。
10月に入り、2年間適正に合わない力仕事を押し付けられた白根の工場から、さつき野の工場に戻ることが出来た時期である。
忘れたくても、忘れることが出来ない嫌な思い出、1998年秋〜2000年の今の時期まで、白根の工場で人が辞めるからという理由で勝手に抜擢され、私にとって適正に合わない力仕事を押し付けられた時期であり、それが原因で現在でもひどく疲労しているときは偏頭痛のような症状が出ることがあり、あれから6年くらい経過した今でも、それだけ嫌な思いをさせられれば肉体的、精神的両面で後遺症が残っているかのようである。
ただ、個人名をずばり公表するのは私自身がその人が絶対的な悪人と思っていても問題があるため、姓・名のイニシャルでその人の名前を述べさせていただきたい。
・山形から戻り、さつき野で頑張ろうと思った9年前
この頃は私としてもわずかな期間だったが順風満帆に過ごせた時期だったかもしれない。山形に出向したときの仕事は自分自身モノに出来なかったという思い出があるが、しかしながらさつき野に戻り、配属になった技術・生産準備・保全系の職場では唯一私だけがパソコンが使えなかったため、最初の時期はワープロ専用機で仕事をしており、年が変わって1998年春、仕事の関係で本社に移動になり、その後、私としても自分自身と話が通じる人たちと一緒に仕事が出来たときは、仕事に対する意気込みを一番強く感じていた時期だった。
元々私自身、文科系の人間であるが故、力仕事は出来るはずもないため、本来ならば測定や検査系の仕事に向いていると自分自身自覚しており、今後その仕事を極めてみたいと思ったこともあったほどである。
しかしながら、1998年の秋に白根の工場に移動してもらえないかとの話があったときは、いやだと一言言っていれば現在の自分とは違っていたかもしれない。
・何一つも良い思い出のなかった白根の工場時代
1998年秋、白根の工場に移動になってしまった。短いようで尋常じゃないほど長かった2年間。
適正に合わない力仕事、自分自身のエゴやモラトリアムしか主張しない周囲の連中。
間違ったことしか言わず、作業手順を変更したにもそれを連絡せず、追及するととぼけるH・T、具合が悪いときは終業時間まで救護室で寝ているN・T、作業の云々について詳しいのは認めるが、やるべきことをやってくれないS・H、自分がやればいいにもかかわらず、やってみもしないで俺できねといわんばかりに逃げ腰になり、人の立場や状況の弱いところを悪いように利用する、悪人断定のN・K。
ある意味、逃げ腰になっているN・Kにはひどい目に合わされ、本当の意味で今後永劫関与したくないと思った。
N・K自身、仕事の面で他の人に注意されたことを私に八つ当たりしたり、または私としても当時は適正に合わない力仕事だった関係上、ひどく疲れているために速やかに帰りたいにもかかわらず、自分のモラトリアムを人に当てはめるかのように、自分の都合につき合わせたり、仕事をしているときは自分自身が本来やらなければならない作業を押し付け、私の足を引っ張るような行為をした上、私としては行きたくないにもかかわらず、毎週末必ずと言ってもいいほど、スナックや居酒屋などで無理矢理飲みに行くのに付き合わせられたことがあり、対した仕事が出来ない上、技術系職業にいながらも技術的な話が通じないために、よくあれで私よりも数歳年上という点が呆れている。
最もひどかったのが、6年前(2000年)の3月20日近辺だったと思うが、夜遅い時間まで無理矢理つき合わせられ、N・K自身が仕事の面で他の人に不平を言われたことを、まるで私が悪いかのように深夜まで八つ当たりされたことがあり、今後絶対に関与したくない思っていた。
世間が2000年問題で騒いだ1999年、その頃に自分自身が適応できない力仕事を押し付けられた影響が身体に出てきたのだろうか。頭の奥が痛む偏頭痛に悩まされ、具合が悪くても頭痛薬を飲んでまで我慢して仕事をしたことがある。
・再びさつき野へ、そして長岡へ…
2000年10月、やっとさつき野へ戻ってきた。さつき野の工場の上長に白根の工場にいたときは良い思いをしなかったとの旨を告げた。
そして、一旦は取り上げられた同然の測定や検査系の仕事を極めてみたいと思った。
もう白根の工場にいたときは良い思い出がなかった関係上、既に精神的な面でのダメージもあり、その結果、人間として弱くなってしまったかもしれないと思うときもある上、普通ならば十分に褒め言葉に値する「○○さん、覚えるの早いですね」という言葉を聞いたとき、まるで自分自身のそういったところを白根の工場にいたときは悪いように利用されたというのを確信してしまった結果、ひどく悲しい思いをしてしまったため、私としても一番言われたくない言葉である。
2001年、この年は色々なことがあった。また、私が携帯を契約したのもこの時期であり、そして長岡へ2年半という、長期に及ぶ出向があったのもこの次期だった。
しかしながら、当時は私としても過去の嫌なことを忘れて前向きにいこうと思っても、ひょんなきっかけでその嫌なことを一気に思い出してしまうこともある。そのことについては、後々改めて綴ってみたいと思う。
なぜこういったプライベートなことをパブリックな環境で公表しようと思った理由としても、私としても過去の嫌な思い出を他の人に語ることで、そのつらい思い出を払拭できればと思った。だから、その加害者の名前までも、実名ではなくイニシャルでという形で公表したのである。
さて、閑話休題。
私自身、どっかしらはずしたようなことを書こうと思っていたが、パソコン版でご覧になっておられる方は、8月16日の記事以降、アマゾン日本語版のアソシエイト・セントラルの記事が表示されるようになっており、もし気になる商品があったら、ぜひ私のブログ上からご購入を検討されることを願っております。
前述したとおり白根の工場にいたときは何一つも良い思い出がなかったが、そんな中、夜勤直をやっていたときに見たアニメである、「ToHeart」と、時期的にプレイステーション2が発売になった頃であり、その頃に買った「ももいろシスターズ」は私としても慰めの糧だった。
特に、「ToHeart」は私が見たアニメでは事実上最後になった、セル画式のアニメであるため、現在のCG着色のアニメと違って、優しめの色合いがとても印象的であるが、2000年以降、富士フィルムがアニメのセル画用フィルムの生産を何故か打ち切った関係上、現在の日本のアニメのほとんどがCG着色になったと思われる。
(DVD及びビデオカセットが現在販売されておりますが、全7巻あります…本ブログでは1巻と、イメージ的に私自身と重なる部分のあった、保科智子(ほしなともこ)が出てくる5巻のリンクのみ紹介します)