「最後の護送船団、放送業界に黒船が来た」。ライブドアがニッポン放送株を大量取得したと発表した2月8日、ある民放の中堅社員がつぶやいた。キー局といえども時価総額は数千億円規模。上場している以上、いつ企業買収されるかわからない。
フジテレビとライブドアの情報戦は、政財界も巻き込んで激しくなっている。「報道」の名の下、恣意(しい)的に切り取った言葉を大量に流す根底には「若造に好き勝手させてたまるか」という“ニッポンの意地”のようなものが見える。各種規制に妙に積極的な政界の動きにも、メディア規制と表裏一体の危うさを感じる。
確かに、マネーゲームは今回の買収劇の重要な側面だ。子どもやお年寄りまでが「TOB(株式の公開買い付け)」や「新株予約権」といった市場用語を使い、関係者の一挙手一投足を話題にするだけの高揚感があるのは否定しない。しかし、その陰で大切なことを見落としていないだろうか。
これは、メディアのあり方をめぐる争いだということだ。2月8日の会見資料で、ライブドアの堀江貴文社長は「放送は通信の一形態である」と言い切った。堀江社長のビジネス手法には議論もあるが、「放送と通信の融合」について放送局や関係省庁が10年来せめぎあい、暗黙に築いた仕切りをあっさりと越えた記述に、斬新さを覚えた。少なくとも堀江社長は、放送局幹部が最も触れられたくない扉を開け、新たな時代のメディアのあり方を問題提起しているように見える。
日本では国民の希少な電波を使うという前提の下、限られた事業者に放送免許が与えられている。放送局は視聴率というシェアによって広告費を分け合い、高収益を上げている。そうした状況下では報道番組でさえ視聴率に支配される。
有力プロデューサーとなじみの制作会社や作家、タレント事務所が作る番組はどうしても似たようなものになる。右肩上がりの時代が去ってなお、閉ざされた市場でコスト感覚に乏しいシェア争いを続けている。
堀江社長の「放送は通信の一形態」発言は、この既得権を決定的に覆す意味をもつ。デジタル化により、報道もドラマもバラエティーも音楽も、すべて0と1の信号になる。それらは、いくつかの条件が整えば、インターネットという伝送路の中を縦横無尽に流れる。衛星放送も大量のチャンネルを保有し、放送している。「電波の希少性」という神話は揺らぎつつある。
「放送と通信の融合」と放送局幹部が言う場合、収益構造や制作システムは今のままで、ネットと連動した商売をするという意味でしかない。しかし、衛星放送やネットの世界では、より細かな視聴者ニーズに向けて格段に低いコストで番組を作っている事業者たちがひしめき合っている。本来の意味での「融合」は放送局に、優越的地位からの脱却と制作費や人件費の大幅削減を含む抜本的な経営改革を求めることになる。
今回の事態の受け止め方は、局内でも世代によって異なるように思える。若手からは「融合」が逃げ切ることのできない現実ならば、痛みの少ない改革を早く考えるべきだという機運も出てきている。昨年の広告費総額でネットがラジオを抜いたというニュースも、大きなインパクトとして語られている。
私は、こうした動きが、放送局がもう一度視聴者ニーズと向き合い、放送の新たな時代を作るきっかけとなるのでは、と期待している。民放幹部が主張する「高い公共性」も、そうした中から再構築されるのではないかと考えている。
NHKがラジオ放送を始めてから80年。記念すべき節目の年に視聴者は、NHKの番組制作は永田町を、民放の経営は兜町を向いて行われていることを知った。「放送の高い公共性」という言葉も、今となってはどこかうつろに響く。
この熱狂が去った後、視聴者との信頼関係をどう取り戻すかが、放送界の大きな課題になるだろう。マネーゲームをめぐる司法判断の行方はわからない。ただ私は、企業価値を決めるのは株主であり、その局の公共性の有無を判断するのは視聴者だと考えている。
そのメディアが本当に高い公共性を持っていれば、誰がいくら株を買おうと、報道姿勢や制作方針まで乗っ取ることは、視聴者や読者が許さないはずだ。最大のリスクヘッジは、ユーザーの信頼を得ることだ。
今回の問題は、今後日本の放送界に押し寄せる大きな波の第1波にすぎない。各局はテレビが真に生き残れる道を、今こそ視聴者の方を向いて考えるべきだ。【中島みゆき】=毎日新聞学芸部

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