永遠の白井義男
<2階席の300円席のファンを大事にした>
故・白井義男氏(享年80)が日本人で初めてのボクシング世界王者になったのは、1952年5月19日のことだった。
ゴングは午後8時16分、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノ(米国)が右アッパーを連打する中、7回には脳振とうを起こして劣勢を跳ね返して、白井は15回、右ストレートを放って試合を終えた。判定は3−0。戦後の復興途上にあった日本に、テレビはまだない。ラジオ東京(現TBS)が生中継、映像は大映が映画館でのニュース用フィルムを撮影していた。会場は後楽園球場、内野の特設リングで試合は行われた。
敗戦で打ちのめされた日本人にとって、水泳の古橋広之進の世界新記録と、この白井の世界王座奪取のニュースほど勇気を与えてくれたものはなかった。
まだ物資も不足し、バラックの家屋の壁には、機銃掃射の跡も残っていた。日本は、この世界戦の直前、4月28日のサンフランシスコ平和条約の発効まで米軍を中心とした連合国軍(進駐軍)の統治下に置かれ、その司令部GHQ(連合国軍総司令部)がすべてを監督していた。
町を闊歩(かっぽ)する米兵に「ギンミー」と言って手を差し出せば、10円玉とかガムをくれた。僕は「誇りほど大事なものはないと親に言われていたから絶対に手を差し出さなかったが、甘そうなガムを見るといつもよだれが出た。「今日はスキヤキだよ」と母が嬉しそうに笑って食べた牛肉は、実は鯨の肉だった。そういう時代に、日本人が米国人選手を打ち破って世界一になったのだ。
英雄。
しかし白井さんは、僕が新人記者としてお会いしても、「この方が?」と驚くほどごく普通に接し、話してくれた人だった。自分は偉いとか、有名人だとかの意識が全くない人だった。ただひとえにボクシングを愛していたし、一途(いちず)に何かに打ち込む若者を、とてもかわいがる人だった。
白井さんから、こう聞いたことがある。「ボクシングではね、2階席のお客さんが一番大事なんだ。いい服着て、何千円も払ってリングサイドに来てくれる人も大事だが、本当はそうじゃない。工場から油で汚れた服も着替えずに飛んできて、300円の2階席で声を限りに応援してくれる人。僕はいつも、そういうファンを大切に思ってきた」。
この言葉ほど、スポーツ、特に「見るスポーツ」(プロスポーツ)の真実を突いた語句は、他にはなかった。白井さんは、2階席の客に、自分の青春を見ていたのかもしれない。
−−白井さんは東京都荒川区三河島の生まれで、父親は大工の棟りょうだった。関東大震災(1923年)、墨田区の家を焼かれて三河島に逃げた。そこで生まれたのが義男さんだった。早産だった(日刊スポーツ新聞1995年連載「戦後この道−−500人の証言」より)。
43年からボクシングを始めたが、戦後も世界は遠い存在だった。その白井を育てたのが、GHQの仕事をしていたカーン博士だった。素質を見抜き、自費でステーキを食べさせ、基本と科学を教え込んだ。
当時の日本のボクシング(拳闘)は肉弾戦法そのもので、アウトボクシングは好まれなかった。引くと、卑怯者の野次すら飛んだと聞く。しかしカーン博士は徹底して「最後に勝つためのボクシング」を教え、みながいやがるジャブの練習を何週間も続けさせた。これも前述の「この道」で白井さんの項を担当した飯田玄記者(現スポーツ部デスク)から聞いたことだが、カーン博士は「体調を整えることがプロの基本」と、早朝のロードワークを「からだに不自然で不必要な負荷をかける。してはならない」と禁止したそうだ。日本的な精神主義の無駄な部分を排除しながらも、しかし不屈の精神を生かそうとした。白井さんは、ロードワークは昼近くなってから始めたと言っていた。
庶民にとって米国人はなじめない存在の時代だったが、日本人に立ち直りの勇気を吹き込んでくれたのもまた、カーン博士のような米国人だった。古橋氏を全米水泳に参加させてくれたのも、米国人だった。白井さんとマリノの試合をマッチメークしてくれたのは、ハワイの日系人のグループだった。
日米の歴史の中で、白井義男さんが担った架け橋の役割の大きさも、今ふり返ると感動的だ。
からだは小さかったし、臆病に見えるほど慎重な人だったが、その精神のスケールは大きかった。
白井さんは昨年暮れの26日に肺炎でなくなった。
何を受け継いでいくか、受け継ぐ側の責任がある。
サッカーに限らず、スポーツ界の汚点となるようなニュースが相次いでいる。プロとかは何かを、日本のスポーツが原点に立ち返って考え直すべき時ではないか。2階席のファン1人1人を、口先だけでなく、本当に真心から大切にしているのだろうか。そういう気持ちを忘れてはいないだろうか。
1月14日、港区の聖アンデレ協会でお別れの会があった。白井さんは、静かに笑みをたたえるだけで、何も語らない。けれど白井さんの言葉は、永遠に心に残されている。

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