平和ボケの話をもう一つ。
一般の人で常に周りの状況を把握しようと歩いている人は非常に少ないのではないか?一頃まで日本は世界で一番安全な所だと言われていた。現在、女性が夜中に安心して出歩けるところは世界で一割もないのではないだろうか?
人間は「社会」にいることにより、ある程度のルールに支配されるが、生命の安全は担保されると考えられてきた。それに対して罰が決められている。
現在は「国」がそれを執行するが、中世は人々は自分の属する「講」、「村」による集団の中で暮らし、刑罰もその集団内で執行された。それゆえ、中世では組織の外に出るのは死か、他の集団の奴隷になる覚悟をしなければならなかった。そういう緊張感が全ての人にあっただろう。
転じて現在は、奴隷になる危険も無いし、死ぬことも殆ど無い。緊張感がなくなった代わりに時間つぶしの惰行が横行し、ゲームで戦争の真似事を小さな画面に見入ってする始末だ。よって後ろ、横から刃物を持った男が近づいても、殆どの人は気がつかない。
武道の稽古を毎週しているとある程度、周りを意識するようになる。隙あらば撃ってやろうなどとも考えるからだ。
今、ISIなどの脅威や脱法ハーブ使用者の脅威の中で、突如、個の「武」が必要となっていることに注意すべきだ。
平和ボケの主な兆候は、「大義」を見つけるとそれに逆に支配されてしまうこと。すなわち「詭弁」と変わりなくなる。原発ゼロを唱える人は、温暖化が進むと、海岸線の上昇より将来、10億人が異動せざるを得なくなるということを少し考えるべきだ。「再生化エネルギー」だけで「快適」な生活を得られるならば、その確証を早く明確にすべきだ。

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