梅原猛先生が親鸞を書くという。
90歳にしてどの様な境地に至られたのか。親鸞が弟子に問うた質問の謎を追究するという。
曰く「おまえは千人殺すのと一人殺すのとどちらが良いか?」(だったような・・・)弟子は「一人も殺したくありません」。答えは「因縁があるから殺す、無ければ殺さない」。この謎めいた記述にはその背景の説明は一切無い。
梅原先生は親鸞の過去に何か「因縁」めいたものがあるのではないかと考えておられるのだろう。その理由は、親鸞は中流公家・日野氏の長男であったのに九歳の頃に「自分から言い出して」比叡山の慈円のもとに上っている、と伝わっていること。他の全ての弟達も出家している。これはなにやらただならぬ事情があるというのだろう。
さらに有名な「悪人ならなおさら往生出来る」という親鸞の教えは、「五逆を除けば、真言を唱えれば往生出来る」という法然までの教条の「五逆を除く」というところに疑問を持ったのではないかと梅原先生は言う。
五逆とは親を殺すこと、僧を惑わすこと、仏を傷つけることなどだが、「悪人」とはそれをなした人のことらしい。
しかし臨済録にはすでに「五無限の業をなす」(五無限の業とは五逆と同じ)ことを肯定する記述がある。これは禅問答の形而上的な話なのだろうが、親鸞はこれを実質的な世俗へのメッセージとして採用したのではないだろうか?
武道に目を転ずれば、新陰流の柳生兵庫介の口伝書「始終不捨書(しじゅうふじゃしょ:常にそばに置くべき書)」にも臨済録から採った「五無限の業をなして大解脱を得ん」という偈がある。思うに全てを捨てた心でいろという戦闘時(武「道」となってからは武士の平常時)のあり方を諭したものであろう。
浄土真宗も殺人を勧めるものではないはずだが、憲法で国として安全を守る様な概念がない時代に、そういう生き方が求められたということか。
この時代感をさらに追求して行きたい。
付(つけたり)、教科書に師の法然が親鸞より劣っていると考えさせられるような記述があると浄土宗側が訴えて教科書会社はそれを直す様だ。確かに親鸞の教えは普通に考えるとコペルニクス的転回だが、この「悪人」の意味が「五逆」の罪人のみに通じているのかが、鍵となるような気がする。なぜならばこの五逆よりももっと残虐なことが世界では行われているから。

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