「共喰い」の受賞で世間は沸いている。今夜のNHK報道で山口県光市での母子殺人事件の背景をやっていたが、妙に符丁するところがある。
「共食い」を囓り読みして私がいつも持っている疑問が沸く。「文学において獣の様な人間を描くことに意味があるのか?」
最初の数ページを読んで、だいたい内容が分かった。父親の精神的病を「遺伝子」として受け継ぐ「子」の「発病」と苦悩の物語だ。貧困と蒙昧、ただ欲望によって生きている父によって周りの人々が引きずられていく。しかし、この小説はエンターテインメント性を持つ。単に「不幸」で終わるのではなく、痛快な結末に向かって「洪水」のように話は進むからだ。力強い人間の存在によって読者を救おうとしている。だから最後になって物語の自然性が損なわれている。
だが、光市の事件簿を見て思った。背景をここまで書き込むなら、著者が主人公の少年でなければこの物語は「SF」であるということ。私小説であることが必要だ。
光市の事件について。
殺人にもその背景があるというものだが、最高裁の裁判になって言を翻すのはどうしようもない外道だ。外道は外道だ(その父親も)。また思う。文学が獣を描く必要があるのか?文学の目的にそんな項目があるのか?私なら被害者の縁者に痛快で残酷な復讐を行わせるだろう。

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