前回書いたチャミンゴの件で、私は脚本を絶賛しました。ところが、色々検索していると、一般的には、「脚本が弱い」かつ「俳優が弱い」とのこと。所謂、「韓流」好きの御仁達らしいが、あまりに文藝的に「人が作った作品」を見る目が無いと見ゆる。
私は俳優がどうのというのは全く興味がない。女房も好童(ホドン)役が誰それだったら、などと言って評価しようとしていなかったが、何を見ているのかと言いたくなる。
却って、ホドン役に市川雷蔵の面影を見た。
確かに学芸会的スキームもあった(例えばさりげなく偶然が重なる)が、高句麗と楽浪郡側に登場人物達が、波の様に揺れ動く展開は見るものがあった。
チャミンゴ(プック)の師匠が断末魔にシェークルピア劇の様な高尚な台詞を吐くが、他のどんなドラマにそれがあっただろうか?
反対に人気がある「善徳(そんどく)女王」は俳優が良いということで家内は喜んで見ているが、あに図らんや、これも脚本が良い。ミシルという美しい野望の巫女(しんじょ)の位置づけが非情に面白いのだ。彼女に触発されて、野に下っていた善徳は、巫女的な性格に育っていくが、このシークエンスは観念的に描かれていて、脚本的には良くない。
「チャミンゴ」と「善徳女王」に共通なのは古朝鮮の歴史への誇りであると思う。悲しい事にこの時代の歴史文書は残っていない。今、残っているのは数100年後の李朝に書かれた「三国遺事」「百済本記」などの数書なのだ。却って、日本の記紀に多くの記述が見つかる。
ここらへんの事情は深く我等の祖先に関係していると考えるのは自然だ。何故なら、地図で日本と朝鮮半島の位置を見れば疑う余地はない。蘇我氏が「任那」と呼んだ故地はどうやらカヤ地方であったという説がある。ミマナとは「私の国」と言う意味か。

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