岩明均という漫画家の「
剣の舞」に上泉伊勢守とその弟子と言われる疋田文五郎の話があるということで、古本を買った。
「雪の峠」という関ヶ原前後の佐竹氏の内情を描いた物語も合わせて載せられており、この作家が史実に忠実に、しかし奔放に想像を巡らせて描いているのが好印象だった。私も同じ作風だからだ。
惜しむらくは、絵が下手だ。登場人物もステレオタイプである。
さて、「剣の舞」だが、伊勢守の主、長野氏の滅亡(大名として。血筋は現在も絶えていない)の戦いに一人の少女の復讐譚を絡めてある。百姓であった少女の家族は武田信玄方の侍に惨殺される。その仇を討つために当時既に有名であった兵法家の上泉伊勢守に師事しようとするが、難しく、その弟子の文五郎に剣を教わる。
無難なストーリーだが、あまり印象的ではない。少女の性格の描き方が「あずみ」を彷彿とさせるのがいけないのか。
伊勢守の新陰流の描き方に、研究しているようだが、難がある。
氏は、後付で書いているが、伊勢守はそれまでの「甲冑剣法」をスポーツ化したと考えているようだ。
私に言わせると、それは間違っている。だから斬り合いの描き方があまり良くないのだ。
司馬遼氏も同じだが、古流よりも現代剣道の方が勝っているという概念だと、間違った剣法の描き方をする。
実際はスポーツ化どころか、伊勢守は斬っても斬っても疲れない方法を編み出したのだ。
それは現在でも柳生新陰流の口伝書に「性、自然に従え」という一言で分かるのだ。
新陰流の教えは相手の動きを見きる、あるいは誘い出すことにより、その先を取って敵を圧倒させることにある。
一人斬った後も剣の「影」に身を入れることを教わる。
即ち、常に防御・攻撃の態勢を崩さないことが肝要と教えているのだ。

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