今日は、ペーター・コンヴィチュニー演出のワーグナー「神々の黄昏」のDVDを見てみた。
このDVDは、下記のもの。
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2003年1月 シュトゥットガルト州立劇場におけるライヴ収録で、ローター・ツァグロゼク指揮のシュトゥットガルト州立劇場管弦楽団。ジークフリートは、アルベルト・ボネマ、ブリュンヒルデは、ルアーナ・デヴォル。新世紀の「リング」プロジェクトとして世界中のワグネリアン、オペラファンに衝撃を与えたシュトゥットガルト州立劇場の「ニーベルングの指環」の第4弾完結篇・楽劇「神々の黄昏」。引っ張りだこの人気演出家ペーター・コンヴィチュニーによる奇想天外な結末。
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「神々の黄昏」の結末の「ブュンヒルデの自己犠牲」といわれている部分を含む約30分間は、私は特に好なところだ。だから、わくわくしながら視聴した。結果は、なんとも複雑な心境...。ペーター・コンヴィチュニーの演出は、初日は必ずと言ってよいほど、ブラボーとブーイングの嵐になるというが、わかる気がする。
舞台は、ブリュンヒルデが愛馬グラーネに乗って、火の中に飛び込むところで幕が下りる。あと残った部分は、主にオーケストラの演奏と下りた幕に映し出される字幕だ。
そして、ラストでオーケストラにライトが当たり、指揮者にスポットライトが当たる。また暗転してこの長い楽劇は終わる。
まず、感じたことは、「手抜きではないか?」ということ。これはあり得ないと思うので、この演出の意味は何かということだ。これを考えさせるのが、ペーター・コンヴィチュニーの狙いかも知れない。私が思いつく解釈はこうだ。
この北欧神話をルーツとする神々の物語を、神々に扮してそれらしい振りで演じるのがスタンダードな演出だろう。ペーター・コンヴィチュニーは、登場人物を現代の人間の「普段の服装」、つまり、スーツやカッターシャツにネクタイをした姿で登場させた。これは、この楽劇が「現代の人々によって演じられている」ことをそのまま表したものだ..と私は思う。そして、最後に、あの問題の字幕シーンで、この物語は、人間が作ったもの(よくテレビなどで最後に出てくる「これは、フィクションです」というテロップと同じような意味)との説明とともにエンディングを迎え、コーダで、これはオーケストラによって演奏され、指揮者によって全体がコントロールされていることを、ライトアップにより、明確に示した...と。
つまり、現代人が作り出した想像による壮大な物語であって、それ以外の何ものでもない、これを思想的にどうこうなどと考える必要はないと言うことかも知れない。
純粋に単なる音楽劇と割り切ったら、このラストは、ツァグロゼク指揮のオーケストラの演奏のすばらしさがやけに耳に残った。最近、いろいろな現代的解釈や奇抜な演出が「横行」していることに対して、思い切った演出で「抵抗」したのかも知れない。
そうだとしたら、このペーター・コンヴィチュニーという人は、すごい人だ。
しかし、この一見、手抜きとも見えるラストは、誰かが1回やったら、もう誰も真似ができないだろう。もし誰かが真似たら、観客から「チケット代を返せ」と訴えられるかも知れないから...(笑)。