お友達のモノスタ'70さんのブログの記事にしたコメントを勝手に再録。
すみません。
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わたくしたちが今生を終えてお迎えいただく阿弥陀のお浄土には、もう……そう、この今このときに、すでに、わたくし、あなた、そちらのかた、あちらの方、ありとあらゆる衆生が「仏」として座るための一つひとつ「専用」の蓮の花が、たわわなつぼみとなって、わたくし、あなた、そちらのかた、あちらの方を待っておられるのです。
……という話が、仏説阿弥陀経というお経には書かれているらしいのです。
お坊さんの説教を聴いてとても感心した記憶があります。
つまり、オーダーメードなのです。
あーきさんならちょっと細かい注文を出したくなりますよね。
TRUCKの鋲打ちデスクチェア風でお願いしますって、お浄土にファックスしておきましょう。
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何でこんなことを書いて、そしてここにわざわざ書くのか……いやそんな特別な理由はありません。
強いて言うと、mixiがアクセス障害でそっちに日記が書けないから……。放置気味のこちらにまじめに日記を書いている……ということでしょうか。
あれはもうずいぶん前に大阪市立美術館で見た仏教美術の展覧会。わけても、閻魔、夜摩天、そのイメージの前身である十王像が集めてあったような。
おなじみの地獄の沙汰の風景が無数に描かれてきたことを改めて知る。
その地獄の裁判。当たり前だけど、私たち衆生の生前のすべての行いが「訴追」されます。閻魔政庁の官吏が一人ひとりの生前の記録を読み上げます。それを聞き届けて裁判長(閻魔大王)が判決を下す。地獄行きが決まるのです。
おなじみのストーリーですね。
私たちが「死んだらどうなるか?」という「物語」を空想するときのお約束と言ってよいでしょう。
これって、阿弥陀経について私に語ってくれた僧の「物語」とまったく同じ認識フレームが含まれています。……私たち人間の根源的な悲しみとともに、私たちの願いがそこに打ち込まれています。
つまり、私たちの「生」は、一つ一つもれなくお浄土の蓮華座に迎えられるように「祝福」されるにせよ、一人ひとりについての厳しい厳しい裁判を経て煉獄の地獄に送られて罰せられるにせよ、どちらも同じ「物語」だと言うことです。私たちの人生が、一人ひとりの「物語」として受け止められ、評価され、位置づけられるという、けっしてかなうことのない「願い」によってドライブされる、切ない切ない「物語」なのです。
十王図という私たちのご先祖たちが数限りなく描いてきた絵図には、十王(後の閻魔)の前に引き出された「被告」としての、未来の「私たち」が哀れに描かれています。そして、その罪を記した「書物」が十王庁の官吏によって読み上げられ、その人生が言上げて物語られるのです。
「物語」です。
その地獄の役人の手にある書物に記されているのは、紛れもなく、なにがしかの一生を送った、その人の、私の、あなたの、あちらの方の、こちらの方の、一人ひとりのかけがえのない「人生」という「物語」に他なりません。
「物語」なのです。
私たちの哀しみの根源。それがこの「物語」なのです。
すべての人に「物語」があって、それを最期に総ざらえして吟味して評価してもらえる。何もない暗闇に消えていくのでなく、誰かに読んでもらえる。語ってもらえる。
やっぱり、「物語」なんだ……という感銘。
「いま」、「ここ」を、「ここまで」と「ここから」をつなぎながら何とか「現実」にまとめ上げるための唯一の方法、「物語」。