二日目が、研究協議一本だけだったなんて……。事前にプログラムも確認していない私。会場すらあたふたと探す体たらく。足が遠のくとヤバいです。思考の平衡感覚をきちんと取り直すいい機会なのだから、ちゃんと出よう。
で、研究協議の3つの報告は、どれも素敵だった。もうなんかね。研究者としての分析的だったり批判的だったりするなんたら……なんて発動してこないわけです。なまくらな私の現状では。ああ……いいなあ。という、そういう感覚がですね、じんわりとわいてきてしまうんですね。だめだだめだと思いながら、なまくら心の片ぶき者には快い時間でありました。
ことに、Oさんの実践。よい。何がいいんだろう?教材がいい。素敵な教材。学習者の反応の【切り取り方】がやさしい。人によってはこれを極端にえげつなくすることもできる(たとえば私)。心地よい発表でした。
であればこそなんですけど。
どうしてあんなに協議は空中戦になってしまうんでしょう??みんな【リクツ】すきね。と己のことを棚に上げて放言する私の最近の悪癖。【読解力】というアップトゥデートな話題だからなのか?カギカッコ付きの「読解力」とついてないやつ。え?二重と一重も区別つけるの?めんどくせ〜〜〜。というか、カギカッコのついていないのなんてあるのか?あったとしてそれ議論の意味あんのか?とよたってしまう。それより、実践の検討とかさ、個々の実践の評価じゃなくて、ここで提案された実践から、読解力をどう考えていくのかのヒントと、多分答えが出てるんじゃないのかと……山越の花火遠し風鈴の音
Oさんの教材だった雨宿りをする男二人の対話だけからなる小説。あれを読むための「ジブリみたいじゃね」的メタ知識はどこで準備されるのか?高等学校の先生の感覚からすると、全部「現場施工」なんだけど、そりゃねーだろ。必ずどこかで準備されることを期待していないんじゃ、読解力の発達なんて何もないんじゃん。登壇した三名の実践者は、一人が高等学校の教員。一人が中高一貫校の教員。一人がこれまた中高一貫の附属の教員。さて、義務教育に関与している二人の登壇者からはしかし、そういう義務教育としての系統性、連続性といってもいい、あのOさんの教材読むには、この教材を中学で読ませておきたいよねという具体的な提案は出てこなかった。会話という「図」しか提示されない中で、その会話によって立ち表れてくる「地」としての雨が降っている状況、雨宿りしている二人という設定が、いつしか二人が対話によって構成していく筋立てに浸潤していくしかけ。単なる場面設定ではなく、背景の書き割りだと思われた要素が実は主題を暗示的に構成していく構造。高校生の教材でしょう。これは。では、これを読解するために、教師である私たちは、どのようにここまで準備するんだろう?場面設定や、作品の舞台設定を意識化する読みはいつ頃やるんだろう?どの教材で行われるんだろう?背景と登場人物が対比されたり類比されたりする構造の教材ってなんだろう?中学校の教材で、小学校の教材で。極端な話、もしも日本の国語教育において「寓話」を一度も教材としてその構造を学ぶ機会が設定されずにカリキュラムが組まれているとしたら、高等学校の漢文の学習において、子どもたちは生まれて初めて「寓話」という文学の機能について学ぶということなのだ(それはかなり面白い事実であり、面白いけど笑えない事実だったりする)。
他者のことばとしての作品に主体的に向き合うことで、それぞれの自己と他者としての作品が「スパーク」して、揺さぶりや倒壊や再構成が生まれる。その一回きりのドラマに文学を読むことの意味や意義をみていくことに諸手を上げて賛同した上で、なお問わねばならない。幼児であった子どもたちであり、小学校をくぐり抜けた子どもたちであり、中学校を経た子どもたちであり、いままさに日々の生きる営みの中で幾多の文学的体験しつつあるわけで。そういう歴史的存在としての子どもと向き合う教師が、そうしたつながりの中で教材を吟味し、出会いをコーディネートするのは、どうしても必要なんじゃないのか。小学校教材のどの教材でそれが準備され、中学校教材でそれがどのように積み上げられ、いま目の前にいる子どもたちの中に「つながっているのか」。出会いやスパークの本質を見抜くための視点が欲しい。全部はわからん。一人ひとりの人生やわかるわけがない。であれば、せめて国語教材との出会いぐらいは追ってみる必要があるだろう。
と、言うふうに考えいくとですね。この研究協議の決定的な欠陥は、小学校教員を登壇させられなかったということに尽きる。できれば、幼稚園教員からも発言させたい。その縦軸の中からしか、一回きりのスパークがなんで起こったのか?に迫るための計画的教育活動の発想は出てこないような気がするのです。少なくとも、後期中等教育に関わる教員は見えるはずです。いや見えていてほしいのです。ここが学校教育の到達点だと俺は思うよって。そこから中学校、小学校で行われている文学の授業をみたら、いろんなことが見えてくるし言えると思うのです。それが高等学校教員の使命かもしれないとさえ、その時思いました(極端に、そう思ったのね)。それは高校の先生が幼稚園の先生に比べて賢いからではなく、下流から上流にもの申していかねば、上流が変わらないということ。下流の人が水源から河口まで見渡したら、多分たくさんのことを見出すだろう。
え?それは研究者の仕事じゃろ?そうかなあ……そうかもしれないという思いと、それじゃぜんぜん駄目なんだという思いと錯綜しています。
一遍チーム組んでやってみりゃいいのに。初等と中等の教員が集うて……。まうまくいかんけど。うまくいかんということを実感するだけでもいいと思うよ。
と既に誰に向かっていっているかさえわからなくなってきたので止めます。吐瀉物のごときブログ記事。