1999年の「ジャパンブルースカーニバル」を観に行った時、メジャーデビューしたばかりのそのトリオバンドは、その日のトップバッターで出演してた。
ちなみにこの時の最終ライナーはドクター・ジョンだった。
ギタリストは塗装の剥げ落ちたボロボロのストラトキャスターで、オープニングの「HIDE AWAY」からオリジナルを数曲はさみ、ラストの「VOODOO CHILD」まで、まさに魂でギターを弾き続けた。世界一ギターを弾くのが好きな男。そんな感じだった。
純粋な「ブルース」を聴きに来ていた聴衆からは、そのどちらかというとロック寄りな音とパフォーマンスから、ほとんど歓声や拍手は聴こえなかったけれども、自分はその間違いなくレイヴォーン、ロリー・ギャラガー、ヘンドリクスを根本に持つプレイに大いに惹かれ、帰宅してすぐに通販サイトでCDを買った。
それからはずっとそのバンド一筋だった。遡ってインディーズ時代の音源も買い、新しいCDを予約して買い、次のCDが発売されるのを心待ちにした。
ツアーで京都・拾得に来た時にも観に行ったし、ギタートーン、フレーズ、自分の理想をほぼカタチにしたようなギタリストだった。
彼のフェイバリットギタリストはヘンドリクスやレイヴォーンの他、戦前のブルースマンからフランク・ザッパやスラッシュに至るまで、その名前を見るだけで心が躍った。
今だから言う。
自分が作った曲のほとんどは、彼の楽曲にインスパイアされ書いた曲がほとんどだ。
彼の曲を聴くことがなかったら、自分は今バンドで演っている曲の大半を唄うことは間違いなくなかった。
が、著名なミュージシャンともギグを行い、賛辞を送られ、音楽雑誌や他メディアでも少しずつ彼の名前を見かけるようになってきたある日、突然にバンドは活動を休止。彼はそのまま単身ロンドンへ渡ってしまう。
ロンドンでの活動は逐次ブログで発信された。
現地の英国人とトリオバンドを結成し、夜ごとパブでのギグをこなしている様子を見るにつけ、日本人離れした彼のギターの腕前に、英国人の音楽ファンたちも心酔している様子は手にとるように感じることができた。
電話で話すことができた事は、今から思えば大変にラッキーだった。
たまたま居合わせたバーで、そこのマスターが彼と繋がりがあり、偶然にもマスターに電話がかかってきた。
「今、一時帰国して大阪に来てるみたいですよ」
マスターは自分に電話を替わってくれた。
「あ!どーも!いつも応援してます!」
「ありがとう。これからもよろしくお願いします。」
「え?大阪にいてはるんですか?」
「そうです。テキサストミーのところです。今から来ますか?」
「いやあ〜〜、これからはちょっとぉ、、、」
たったこれだけの会話だったけれども、その夜その場所にいたことを心から神・仏に感謝した。
彼が英国を引き払って帰国し、入院のうえリハビリ治療を行っていると聞いたのは、それから半年ほど経ったある日。
アルコール中毒だった。
一般的な酒豪と呼ばれる人が驚くほど、彼の酒の飲み方はある意味ムチャクチャで、電話で話した時ももちろん酔っていて、聞くところによると自ら助けを求めるように、外側から鍵のかかる場所に隔離してくれ、と頼んだらしい。診察によるとアルコールによる脳の萎縮もみられたということだった。
近しい人の話しでは入院前日、医師に 「長期の入院になるのでしっかり準備してきてください」 と言われたのを 「最後の酒をやってこい」 という意味に捉え、入院の荷物を持ったまま朝まで飲み歩き、そのまま病院へ向かったらしい。
2年前、長期にわたるリハビリ治療を終えた彼は郷里で家業である神職を継ぐべく、大学に再入学し、音楽のほうは半年に一度程度、都内でライヴを行う程度になった。
それでもいつかまた京都にも来てほしい。健康的に牛乳を飲む様子を発信するブログを見ながら、自分は切にそう願っていた。
徐々に痩せていく彼を、少しばかり気にしつつ。
今年に入って自分もドタバタが続いて、彼のブログもずいぶん長く更新がストップしたまま、すっかり気にとめることもなくなってしまった。
彼の情報はごくたまにタッカーくんから聞くくらい。
そんなある日、翌日に迫ったライヴのため、スタジオで個人練習をしてる最中に、タッカーくんから連絡が入った。
「亡くなられたらしいです、、、、、。10月22日に、、、。」
にわかに信じられなかったし、咄嗟に返事できなかった。
ウソやん、、、。なんで、、、? 言うことが精一杯だった。
「数週間前から、お酒で体調崩されてたみたいで、、、、、、。」
あかんかったんかいな、、、、、。
何度でも言う。
自分が作った曲のほとんどは、彼の楽曲にインスパイアされ書いた曲がほとんどだ。
彼の曲を聴くことがなかったら、自分は今バンドで演っている曲の大半を唄うことは間違いなくなかった。
そんなだったもので、おこがましいとは思うけれども、彼がいなくなって、自分の半身を失ってしまったような気分。
彼のほうが少し年若ではあったけれども、自分はあのギターのトーンを追い続け、あのギターのトーンを心の底から求めてきた。
1999年のあの時に、あのギターを聴かなかったら、JRBもKJJもやってない。
これからも自分にとって最高のミスター・トーン。
原くん、ありがとう。

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