今月は地元の中学校(一年生4クラス)へ、アートの授業を数日間行う事になっている。
ここ数年間は、実在する【モノ】としての作品づくりからは少々遠のいているような気がするが、(「無限∞彫刻」は今でもせっせとつくっている。地元のギャラリーmasuii RDRさんにて取り扱いあり。→
http://www.masuii.co.jp/hisayoshi/hisayoshi1.htm)
【モノ】としての作品づくりから遠のいていても、アートや表現の授業を行なったり、ワークショップで子ども達と活動したり、不定期にOPENするコミュニティーカフェなどを通して、違う形でアートは常に考えている。
今日の授業で何をしようか・・と昨日の夜中、色々考えていた。
まず、作品をつくる前に、自分がわざわざ学校から呼ばれていくわけなので、
自分が考えるアートについてを話そう。とおもった。
アートは広い。壮大で・・自分だって、まだその過程にいる。。。
アートには答えがない。
人生にも答えがない。
そんなことに対して、なにか結論を求めることは世界を縮めてしまう。。
今日行なった第一回目の授業では、数メートルある長い模造紙にクラスの全員で紙を囲んで座り、ただ線を引く(描く)。というもの。
利き手や、利き手ではないほうの手で線を引く(描く)。
スプーンを握るように線を引いたり(描いたり)、
目をつむったり、音を聞いたり、叫んだり・・様々な状況でただ線を引く(描く)。描きなぐる・・。



初め緊張していた彼ら(生徒)も、私も、先生も、みんなが叫びながら線を引いたり描きなぐったりしていると、自然と『笑み』が生まれる・・。
このような方法は、アートセラピー的な要素を取り入れたワークショップのときに、アーティストが割りとよくやる方法だが、心の開放を素早く促すにはとても効果がある。
ここで伝えたかった事は、
今回自分が提案するアートの授業は完成が目的でない事、うまく作ることが目的でないこと、
意味のないことの中に、実は意味が隠れている事。
である。
描きなぐった線の中や、音を聞いて無意識で描いた線の中には、余計な意図は存在しない。
無意識に描いた線の中に「その人らしいもの」が現れている。
そういうことを大切にして、今月からスタートする私の授業は進めたいとおもった。
今日の授業の後半に自分のこれまでの活動の話をした。
大学時代から入れて約10年間、フォルムを意識したものや、ネガティブな感情に直結的な作品づくりをしていた。
ところが、2004年の「雨の輪」という彫刻作品を発表した際に、作品に子どもがよじ登って遊んでいるのを目の当たりにした時にこれまでの考え方が崩壊した。
「雨の輪」2004
それから、作品と人や場所を意識するようになった。
「虹の輪」2004 <約60人で腰掛けることができるベンチ>
さらに、形を留めることの必要性も疑問になった。
形がなくてもアートは存在するのではないか・・・
「風車万華鏡プロジェクト」 2006〜∞
<まちを散策し、カメラで撮影。あるときは、その町の主にガイドをたのむ。商店街でお買い物なども・・。アートを媒体に地域とつながったり、自分のまちを再発見したりする。それらの中で心に残る写真を使って万華鏡をつくる。現在400人以上が参加、プロジェクトは継続中〜>



「〒post to post〒」 2007
これは、「あたなたの手紙を、あなたに代わって私がお届けします。」というもの。
実験的につくったポストに入っていた一通の手紙に書かれている知らない相手の住所(このときは和歌山県だった)をたどって、旅が始まる・・。
たまたま行き先となっていた和歌山県は父の故郷だった。ここから、自分のルーツを探る旅に一転する。→詳しくはコチラ
http://air.ap.teacup.com/applet/art-land/20070409/archive



ここ数ヶ月前から始めたコミュニティー・カフェ「SU-cafe」
<茶飲み場・映画上映会・座談会・作品展示など・・>
ここにあげた作品や実験は、最終的な形がどうであるのか全く予想がつかない。
ただ、自分が今感じることは、
これらは、
“生きている”という事。
自分の意図しないところで大きく広がり、新たな意味を生みだし、
人をつなぎ、何らかの影響を与えるように波紋をつくる・・。
hisayoshi art landの遊具的アート空間は、
大きな広がりや、変化に幸福を感じ、計り知れない興味を私にあたえてくれているのだ。

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