Inter omnes qui recentibus diebus Latine scribant, certe ego pessimum esse puto. Sed dum vivo, hujus linguae peritus fieri non potero. Itaque sententias mendis plenas hic scribam.

2006/5/2

行く春や重たき琵琶の抱き心  

行く春や重たき琵琶の抱き心(蕪村)

ver iens,
adfectus citharae
amplexae gravis

もともと、「抱く」というのをmanibus habitaeとしていたものを改訳してみました。Gaffiotによればamplectorには、物理的に抱きかかえるというようなニュアンスとともに、entourer de son affection(愛情で包む)というような意味もあるようで、日本語の「抱く」により近いかとも思います。sensusとしていた「心」については、adfectusに変更。Gaffiotはこの語に、etat d'ame,disposition d'ame,sentimentという訳をあてていることから、こっちの方を使うことにしました。sensusにもsentimentという訳語が与えられてはいるのですが、やはり、表面的な「感覚」が表に出てくるようなかんじがするのですが、どうでしょうか。

問題となるのは、adfectusに属格でcitharaを絡めるのがはたして適切かどうかという点。adfectus citharae amplexae gravisを直訳すれば、「抱かれる重い琵琶の心持ち」ぐらいになるかと思うのですが、原文で表されている「琵琶を抱いている人間の心持ち」というニュアンスまでこのような表現で出せるのかどうかは分かりません。かといって、adfectus citharam gravem amplectentisとして「重い琵琶を抱いている者の心持ち」としてしまうと説明的になりすぎて、無粋かとも思うのですが。ご意見をお寄せくだされば幸いです。
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2006/4/29

菜の花に僧の脚半の下りけり  

菜の花に僧の脚半の下りけり(蕪村)

discenserunt
in floribus brassicarum
calei monachi.

Dans les fleurs de colzas
sont descendus
les chaussettes d'un moine.

「旅人の鼻まだ寒し」と同じ技巧を用いた句。いずれも、身体の一部のみを指示することにより、そのひと全体を表しています。単に僧というよりも、あえてそのディテールを主語にすることで、人物がより具体的な存在感を獲得しているように思います。両側にひろがるのは、一面の菜の花畑。黄色と黄緑のじゅうたんの中を、脚半を巻いた足を交互に動かしつつ遠ざかっていく僧。そして、その様子を何をするでもなくずっと見守っていた作者はおそらく、菜の花畑を見下ろすこの陽の当たる高台に、もう何時間も前から腰を下ろしていたのではないでしょうか。この句は、僧の歩みを絵画的に描いているとはいえ、そこから喚起される深閑とした時間の経過、あるいは止まってしまったかのような時間の流れこそが本当の主題であるような気がしてきました。

訳するにあたりまず問題になったのが、脚半とは何かということ。水戸黄門で助さん角さんが脚に身に付けてるものだと想像はついたのですが、いったいあれは靴なのか、靴下なのか。そこで、国語辞典を引いてみたら、以下の説明がありました。

「(1)旅や作業をするとき、足を保護し、動きやすくするために臑(すね)にまとう布。ひもで結ぶ大津脚絆、こはぜでとめる江戸脚絆などがある。脛巾(はばき)。(2)「巻き脚絆」に同じ。」三省堂提供「大辞林 第二版」より

要するに、レッグウォーマーやサポーターのようなものだったようです。では、それをラテン語でどう表現するのか。とりあえず、いつも使っているノートルダム大学のオンライン英羅辞書でsocksで引いてみましたが、相当するラテン語はない模様。しょうがないので、Gaffiotの羅仏辞典のイラストで見る限り、短めのブーツに相当すると思われるcalceusを使ってみました。

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GAFFIOTは改訂版が出て、イラスト入りはもう入手困難になった模様。

ところでこのイラストを見ていて気になったのが、calceusが覆っている範囲がかかと(calceusという単語自体、「かかと」を意味するcalxから派生したものです)からくるぶしの上あたりのみで、つま先のほうは露出している点。これでは冬はかなり寒かったのではないかとつい思ってしまいます。ローマ帝国はブリタニアまで版図を広げたことから、防寒用の足袋や靴下に当たるものがあったと思うのですが、それが何という語だったのか探せないのが残念。教えていただければ幸いです。

なお、僧に関しては、教会ラテン語で「修道士」を意味するmonachusを使ってみましたがどうでしょうか。一人で修行する行者などを表すeremitaを使ってしまうとやりすぎでしょうか。

さて、僧がでてくるようなnekojita氏の俳句がないかまた探していたところ、偶然見つけたのが、このbleu sans limiteというサイト。このなかのjeux d'écrituresというコーナーのneko no kuというスレッドで、非常に面白い句を発見。

le prunier décline
rosa rosae rosarum
au temps passé

梅散るや
昔のローサ
ローサールム

rosa rosae rosarumとは、ラテン語の教科書の一番初めに決まって出てくる変化表。この変化を覚えるのはなぜか「薔薇」という花を使うことに決まっているようです。

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泉井久之助『ラテン広文典』第一章の変化表

ところで名詞変化のことは仏語でdeclinaison。declinerから派生した語です。つまり、初句のdéclineは、「梅が衰えていく」ということと、「名詞変化」が掛詞のようになっているわけです。 さらに、au temps passéとともに用いられたこのフレーズはまた、「いにしえの言葉であるrosa rosae rosarum」のみではなく、「昔、習ったrosa rosae rosarum」をも示唆しうることから、ラテン語を習い始めたばかりのころの情景を思い起こさせる効果もあるように思います。ここで思い出したのが久保田万太郎の次の句。

竹馬や
いろはにほへと
ちりぢりに

この句では、俳句には珍しく言葉遊び、あるいは言葉の重層的な意味を生かした技巧が見て取れます。まず、「竹馬」という語の背後に「竹馬の友」という表現が配されます。そして、学校で「いろは」をともに習った友達たちも今は皆、「ちりぢりに」分かれてしまったということを、「いろはにほへとちりぬるを」を巧みに引用しつつ表現。そこには当然、イロハ歌の主題である仏教的無常観も重なってきます。

nekojita氏のrosa rosae rosarumには、「イロハ」のような思想性はありませんが、そのかわり、「梅散る」とともに用いることで浮かんでくる「薔薇の花が散っていく」という豊かなイメージ、さらには「花の散ること」によって喚起される古代からの、そして学校時代からの時の流れまでもが、そこに読み取れるように思います。ラテン語愛好者の贔屓目だといわれるかもしれませんが、非常に短い表現から世界がどんどん広がっていくという意味で、このrosaの句は、相当な傑作ではないでしょうか。

5/4追補 その後、フランスのYahooグループでnekojita氏による自注を発見。"Le temps est passé et la couleur aussi."とあるので、これは小野小町が意識されていたのかもしれません。
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2006/4/23

遲キ日や雉子の下りゐる橋の上  

日や雉子の下りゐる橋の上(蕪村)

dies longior,
phasianus
ponte insedit.

La giornata allungata,
un fagiano viene
a mettersi sul ponte.

「雉子」が「下りゐる」ということがいったい、どういうことを意味するのかいまいち良く分からないのですが、普段は林の中にいて人目に付かない雉がめずらしく、橋の上などという目立つところにとまっているということを詠んだ句であると考えてみました。そこから連想されるのはやはり、人っ子一人居ない、非常に静かな情景です。

この句に関してはnekojita氏のサイトに仏訳があり、「遅キ日や」は”La journee s’etire-(日が長く伸びる)”となっています。遅い日とはなにかと改めて考えてみると、確かに納得。また、橋はle pont de boisとして、木橋であることを明示しています。boisがないと、どうしても石の橋が連想されてしまうからでしょうか。でも、それはそれで、面白いんじゃないかとも思います。ラテン語訳とイタ語訳はnekojita氏のフラ語訳を参考にしたのですが、あえて「木」はださないでおきました。もっとも、フィレンツェ出身者ならポンテ・ヴェッキオの上に雉が舞い降りた様子を頭に思い描くかもしれませんし、そうなると、元のイメージとは全く似ても似つかぬものになってしまうかもしれませんが・・・。

「雉」を表す語はフラ語ではfaisan、イタ語ではfagiano。どちらもラテン語phasianusに由来する語です。Dauzatの語源辞典によるとこのphasianus自体、ギリシャ語φασιαυοςから借用された語だそうです。さらに、Pianigianiの語源辞典によれば、φασιαυοςという語は、現在のグルジアに当たる地域にあったコルキスという王国を流れるΦασιςという川の形容詞だそうです。コルキスとは金羊毛皮を求めて旅立ったイアソン率いるアルゴ船の目的地。Pianigianiは、この川の岸からこの鳥を連れ帰ったところから、φασιαυοςという名がつけられたとしています。ということはギリシャ人にとっても異国の鳥を指す語が、さらにラテン語に入って使われていたということになります。日本でいえば、漢語経由で入ったインドの語のようなものでしょうか。つまり二重の意味での「バタ臭さ」を持つ語だったのかもしれません。

さて、異国の香りのする雉ということで思い出したのが、nekojita氏の俳句

sous le projecteur
lophophore versicolore
une nouvelle teinte

映写機のもと
虹雉の飛ぶ
ふと変はる色

夜、屋外で映画をみていると、映写機の光を横切る鳥が一羽。その瞬間、鳥はカラー映像を映し出す光を身に受け、なんともいえない色に染まる、というような情景を表現しているのでしょうか。しかし、これはおそらく、空想の中のみで作った句だと思います。lophophore versicoloreという非常に魅力的な語がまずあって、それを上のような文脈に置いてみたというのが真相なのではないでしょうか。

lophophoreという綴りから連想されるのが、妖しく光るphosphore(燐)。versicoloreとは「多色の」という意味ですから、いろいろな色が燐光を放っている様子が、このニジキジを指すこの単語から浮かび上がってきます。lophophoreは見るからにギリシャ系の言葉。Dauzatによれば、フラ語での初出は1813年と、かなり新しい語のようです。また、この語がlophosとphoreという二つの意味素からなることも指摘されています。Baillyの希仏でλοφοςを引いてみると、「尾」という意味と「鷺」という意味があるようなのですが、phoreが「〜を持った」という意味の接尾辞であることを考えるならば、lophophoreは「尾をもった(鳥)」という意味だと思います。

いずれにせよ、鳥の名前で、ここまで連想をかき立てられる単語というのははたして、日本語にあるのかどうか。いまひとつ思いつきません。当然のことながら、そのニュアンスを余すことなく翻訳することなど不可能なわけで、「虹雉」という日本語ではこぼれ落ちてしまう部分が非常に大きくなってしまいますがしょうがありません。

5/12 nekojita氏ご自身から、この鳥についての情報をお寄せいただきました。ありがとうございます。こちらがその写真です。小学館の仏和大辞典で「ニジキジ」との訳語があてられているのが納得できる華やかさです。特に、金属的な光沢を帯びているところが印象的な鳥です。
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2006/4/21

商人を吼る犬ありもゝの花  

商人を吼る犬ありもゝの花(蕪村)

flores persicorum,
est canis qui
mercatori latrat.

les fleurs de pêchers,
un chien aboie
contre le marchand.

犬のほえる声が聞こえてきたので目をやると、行商人が一軒の家の庭先に佇んでいる。その傍らには、少し傾きかけた日差しを浴びた桃の花が満開。こんな感じののどかな情景でしょうか。鳴き声も、若い犬がキャンキャンと激しくほえたてているのではなく、老犬が遠慮がちにワン、ワンとほえているというような感じのほうが似つかわしいように感じます。あくまでも静かな里での一コマです。ここには、作者以外の人間の姿は感じられませんし、登場する商人ですら人間としての具体的な存在感はなく、単なる風景の一部であるかのような印象をうけます。

cerasum(桜)、pirum(梨)と続いたので、今日はpersicum(桃)の出てくる句を取上げてみましたが、Dauzatの語源辞典によると、persicumとは、Persiaから派生した語で「ペルシャの木」という意味だそうです。もちろん、ペルシャからこの木がもたらされたことを表しています。

さて、ほえるに当たる単語は、ラテン語でlatro。この単語は、フラ語には残らなかったようです。Dauzatによると、latroはもともと擬音語起源の語。それがラテン語の段階でbaudorにとってかわられ、さらに俗ラテン語の段階でこのbaudorに接頭辞のついた*abdaiare *abdaudiareが生まれ、aboyerに至ったとあります。latroが擬音語であるとすると、ローマ人は犬の鳴き声を「lat lat」と聞いたということなんでしょうか。いっぽう、baudorに関しては手元の羅仏辞典に収録されていなかったため使いませんでしたが、英語での犬の鳴き声の表現である「bowwow」にも近いように思います。また、こちらの語源辞典は、能相欠如動詞のbaudorがbaudoに変化したかたちから、英語のbawl(ほえる)が生まれた可能性を示唆しています。

イタ語では、「ほえる」を表すのにlatrare、abbaiareの双方があるようです。Pianigianiの語源辞典を引いてみると、abbaiareは古仏語からイタ語に入ったとあります。ということは、北イタリアの方でabbaiareを多く使い、南に下るにつれてlatrareの使用が増えるというような方言差があるのかもしれません。また、語源については、Dauzatとは違ってbauborであるとしているほか、ギリシャ語のβαυζωとも間連づけています。いっぽうのlatrareに関しては、このラテン語が印欧語根LA/LATに由来するという説を紹介しつつ、同根の語としてサンスクリットや古スラブ語、リトアニア語の単語まで挙げているのには驚きです。

さて、Caledonia(現在のスコットランド)の血を引いたうちの犬の鳴き声ははたしてLAT LATと聞こえたのかどうか。もしそうだとしたら、数千年前から続く由緒正しい鳴き方だったのかもしれませんが、残念ながら4年前に亡くなってしまったので、もはや確かめようがありません。
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2006/4/20

梨の花月に書ミよむ女あり  

梨の花月に書よむ女あり(蕪村)

flores pirorum,
mulier librum legens est
in lumine lunae.

les fleurs de poiriers,
une femme lit un livre
au clair de la lune.

薬盗む女」と同様に、月夜の女を描いた句。梨の花といわれてもどんな花かはすぐ思い浮かばなかったので、調べてみたら見つかったのがこの写真。桜と同じく白い花が枝一杯に花開くようです。

夜、窓の外を見ると満開の梨が月の光を浴びて闇の中にぼぉっと明るく見えている。そんな窓辺には女がひとり、なにやら熱心に本を読んでいる。そんな情景を詠ん句でしょうか。この場合、明かりはつけていたのか、それともつけていなかったのか。人工的な明かりがあると、窓の外に咲く梨の花の白さがかすんでしまうため、ここはどうしても月明かりのもとで書を読んでいると解釈したいところ。今の書籍は活字が小さいため不可能かもしれませんが、木版による昔の本なら可能だったかもしれません。

ラテン語で梨の木に当たるのがpirus/-i。桜のcerasusと同様に、形は男性名詞でも文法性は女性名詞。それに対して中性名詞のpirumは梨の実を指し、これまたcerasum(さくらんぼ)と対応しています。Dauzatの語源辞典は、このpirumの複数主格および対格形であるpiraが俗ラテン語の時期に女性名詞と認識されるようになり、フラ語のpoireになったとしつつ、同様の変化をたどった語としてさらに、pomum>pomme(りんご)、prunum>prune(すもも)、そしてcerasum>ceriseを挙げています。

イタ語では、peroだと梨の木、peraだと梨の実となります。そしてこのような対立はcilegio(桜の木)/cilegia(さくらんぼ)にもみられます。おそらく、木を指す方は-usで終わる語の単数奪格形が、実を指す方はフラ語と同様に、-umで終わる語の複数主格形がイタ語になっていったのだと思われます。

ところで、夏の終わりになると自宅の近所の農家で香水を売ってるのを見かけるのですが、いままで花を見た記憶がありません。いったいどこに畑があるのか。謎です。
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2006/4/19

旅人の鼻まだ寒し初ざくら  

旅人の鼻まだ寒し初ざくら(蕪村)

viator etiam naso
sentit frigorem,
primi flores cerasorum.

voyageur aurait encore
froid au nez,
premières fleurs de cerisiers.

旅人が寒そうにしている様子を、「旅人の鼻」にしぼって表現をしたところがとても面白い句。「旅人の背や」などとすると、少々観念的になってしまうのと対照的です。日本語で「鼻」というと、なんとなく滑稽な感じがしますが、ラテン語やフラ語ではどうなんでしょうか。また、「鼻」と「花」をかけてるのかなとも思いましたが、別にそこまで読む必要もないかもしれません。「鼻寒し」は、ラテン語では、「鼻で寒さを感じる」という散文的で野暮な訳。フラ語では慣用句を使いました。「初ざくら」は両方とも「最初の桜の花」としました。また、フラ語では「寒し」に条件法をつかい、推測の意味を表してみたつもりですがどうでしょうか。

桜に当たる単語は、cerasus/-iを使いました。形は男性ですが、文法性は女性。樹と実の双方を指したようです。これ以外にcerasum/-iという中性名詞もあるのですが、こちらは実のみ。学名でも、桜はみな、cerasusではじまるようです。Dauzatの語源辞典をみると、初出は12世紀、俗ラテン語の*cerasiaを経て、フラ語のceriseになったとあります。ちなみにイタ語ではciliegio。イタリアではRとLが交替したのに対し、フランスでは起きなかったということなのでしょうか。

なおDauzatによると、cerasusはギリシャ語からの借用語で、もとはκερασοςだったとか。Perseusの古典テクストデータベースには見当たらないようなのですが、こちらの語源辞典をみるとやはり同じ語に遡らせ、その語自体、小アジアからギリシャに入った語としています。
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2006/4/18

春雨や女郎花なンど芽に出る  

春雨や女郎花なンど芽に出る(蕪村)

pluvia veris,
patriniae et ceteri
gemmant.

pluie de printemps,
les patrinias et les autres
bourgeonnent.

女郎花は秋の七草。その発芽の様子をあえて春に詠んだところがミソなのでしょうか。それにしても、この花、「女郎」と表記されているだけに、単なる植物以上の連想がどうしても付きまとってきてしまうようにも思います。この句は昨年新たに発見された自筆草稿の中に載っていた未知の句だそうで、詳しいことに関しては蕪村周辺探索ネットに情報があります。さて、女郎花。ラテン語学名をはしょったpatriniaという語が、英語や仏語でも用いられているそうなので、羅訳でもそれを踏襲。patriniaというと、どうしてもpater、patriaなどといった語が連想されてしまい、「女郎花」の女と反対になってしまう、などとも思ったのですが、こちらをみると、この学名は、Patrinというフランスの鉱物学者にちなんだ名前だそうです。しかもこのPatrin、18世紀の人だそうで、蕪村と同時代人。
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2006/4/17

うぐひすの啼やちいさき口明て  

うぐひすの啼やちいさき口明て(蕪村)

luscinia
rostro parvulo aperto
canit.

un rossignol,
avec son petit bec ouvert,
chante.

un usignolo,
col suo piccolo becco aperto,
canta.

うぐいすは春の代名詞ともいえる鳥ですが、ヨーロッパ語への翻訳となるとなかなかいい言葉がないらしく、仏語の場合rossignolで間に合わせているようです。今回使ったのは、rossignolの語源となった単語。指していた鳥は仏語と同様です。要するにナイチンゲール。鳴くのは夜になってしまい、春の日差しを浴びてホーホケキョというのとはズレてしまいますが、しょうがありません。言語史的には、LとRの交替が生じているのが面白いところ。Dauzatの語源辞典を見ると、仏語としての初出は1175年、クレチアン・ド・トロワで、語形はlosseignol。ちなみにイタリア語では、usignolo、rosignoloがあり、小学館伊和中辞典(旧版)では、後者に「文語」との表示がありました。イタリア語での二つの語形の関係、さらには仏語rossignolとの関係に興味をそそられるところではありますが、その前にまず、これらの語が表す鳥の鳴き声を実際に聞いて見たいところ。クープランの「恋のうぐいす」をホーホケキョとつい理解してしまいがちな自分なだけになおさら。    
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2006/4/16

蛇を追ふ鱒のおもひや春の水  

蛇を追ふ鱒のおもひや春の水(蕪村)

cogitatum salmonis
serpentem sequentis
in aqua verna.

pensée d'une truite
qui suit un serpent
dans l'eau de printemps.

これは変わった句ですね。水に落ちた蛇を鱒が追いかけるということなんて本当にあるんでしょうか。実際に蕪村がそのような情景を目にし、珍しいというので作った句なのか、あるいは、空想の上で何らかの隠喩を込めて作った句なのか。

集成本や大系本の頭注をぜひ読みたいところなのですが、後者は持っていないし、前者は押入れからの発掘作業が・・・。ネットで探してみてもこの句に関するコメントはみあたらないようですし、とりあえず表面上の意味のみを訳すにとどめました。

鱒は、サケ科サケ目であるということから、salmonを使いましたが、「川にいる鮭」というと産卵のために故郷へ戻ってきたが、産卵後はすぐに死んでしまう運命にあるということで、原文にはないコノテーションが生まれてしまうかもしれません。「鱒のおもひ」はそれぞれcogito、penserという動詞が名詞になったものを使ったのですが、どうでしょうか。水の中で鱒が「困難は分割せよ」とか「考える葦である」とかぶつぶつ呟いてそうな感じがしなくもないのですが・・・。

ぜんぜん関係ありませんが、子供の頃、川に落ちた蛇を実際に見たことがあります。ウナギだ!捕まえて食べよう!なんて思った自分でありました。
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2006/4/15

菜の花や鯨もよらず海暮ぬ  

菜の花や鯨もよらず海暮ぬ(蕪村)

flores brassicarum,
nulla balaena proxime visa
mare nigruit.

fleurs de colza,
sans aucune balene qui vient
la mer s'assombrit.

「ひねもすのたり」の続編のような句。菜の花畑に春の陽光が差すばかりで、何も起こらないのどかな海ぞいの畑のありさまを、「鯨の不在」で表現していると解釈しました。「鯨の存在」ではなく「鯨の不在」をうまく用いているところがポイントなんだと思います。そこから幾ばくかの空虚感を感じ取ってもいいのかもしれませんが、自分としては平穏な様子の形容であると読みたいと思います。

今回も使ったflores brassicarumは菜の花ではなくキャベツの花ですが、遠くから観れば大して変わらないはずと開き直り。「鯨もよらず」は、ラテン語では「鯨が近くに見られることなく」、フラ語では「やってくる鯨もなしに」としてみたつもりです。暮れぬは、ラテン語では完了時制を使いましたが、フラ語では現在形にしました。「暮れつつある」ぐらいの意味になるのでしょうか。
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2006/4/14

雨の日や都に遠きもゝのやど  

雨の日や都に遠きもゝのやど(蕪村)

dies pluvialis,
sum in caupona prunorum
quae regia abest

jour pluvieux
passé dans l'auberge des pêchers
loin de la capitale.

ここでは「もゝのやど」と述べられているだけで、その宿を外から眺めているのか、それともそこに滞在しているのかは不明なのですが、「庭に桃の木が咲くひなびた宿の一室で、外の雨の音を聞きながら、何をするとなく時間を過ごしている」、ぐらいに解釈してみました。なお、dies pluvialisは直訳で、過去に用例はないようですが、そんなことを言っていたら羅訳なんてできない(少なくとも自分には)ので、よしとします。「都」については、regiaだと「宮廷のあるところ」という意味で、しっくりくるように思うのですが、capitaleだとどうでしょうか。
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2006/4/13

はるさめの中を流るゝ大河哉  

はるさめの中を流るゝ大河哉(蕪村)

in pluvia verna
fluet flumen
latissimum.

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2006/4/12

これきりに徑盡たり芹の中  

これきりに徑盡たり芹の中(蕪村)

dehinc
via non est,
in apiis.
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2006/4/11

古井戸のくらきに落る椿哉  

古井戸のくらきに落る椿哉(蕪村)
flos cameliae
cadens in tenebras
putei veteris.

fleur de camelie
chutant dans les ténèbres
du vieux puit.

蕪村の俳句は絵画的であると高校の文学史かなんかで習ったように思うのですが、この句なんかはまさに絵画的、というか映像的。で、こういう句は訳しやすいんですね。「暗闇に落ちゆくピンクの花びら」を切り取って見せる限りにおいては、日本文化のコンテクストに依存している部分は非常に小さいはずだし。椿という植物には、日本独特の意味付けがなされているんでしょうが、ここではそういうものは切り離してしまっても大して問題にはならないように思うのですね。

あ、インチキ仏訳もしてみましたが、誰かもう訳してるかな?

仏語といえばやはりnekojita氏。Natureというコーナーに傑作を発見。

fenêtre fermée
le frou frou des feuilles fanées
furtif et fugace

閉じられた窓
しおれた葉がかさかさ
ひそかにはかなく

この句、ほとんど全部がfで始まる単語で構成されているんですね。そして、それがfroufrouという擬音語の反響となって、一句全体に枯葉の音が広がっていく。よくも作ったりと絶賞したくなっちゃいます!でも、こういうのは、今日の蕪村の句と対照的に非常に訳しにくいです。

篭りゐれば
かさこそ枯葉
こつそりと

と、Kを使って訳してみましたが、原語のfの持つニュアンスと比べてどうなのか。それも、日本語におけるfとkの違いではなく、フランス語でのfと日本語でのKを当然のことながら比較の対象としなければならない。こんな感じで訳していいのかどうか、本当のところはよく分かりません・・・。
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2006/4/10

晝船に狂女のせたり春の水  

晝船に狂女のせたり春の水(蕪村)

die deliram
navicula fert,
aqua verna.
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