Inter omnes qui recentibus diebus Latine scribant, certe ego pessimum esse puto. Sed dum vivo, hujus linguae peritus fieri non potero. Itaque sententias mendis plenas hic scribam.

2006/8/31

Dies mortis Naucae  

店頭でロシア語の本を手にとって見られる貴重な場所だったナウカ書店が倒産。在庫処分を行っていたがそれも今日で終わり。十数年ぶりに神田のこの店を訪れる。仕事関係で何か面白い本はないかと一通りみたあと、ふと見つけた翻訳本を購入。蕪村である。最後に店員さんに尋ねた。「ボードレールのロシア語訳はありますか」。返ってきたのは前回と同じ答え。「あったんですけど・・・」。店を出て、I嬢とともに寿司屋で鉄火丼を食す。わさびの味がひときわ身に染みる夏の日の午後であった。

蝉鳴や行者の過る午の刻

Звенят цикады.
Мимо бредет монах.
Полуденный час.

(Татьяна Соколова-Делюсина訳『ЁСА БУСОН』p60 1998)

まず目に付いたのが、蝉が複数である点。自分には、「田んぼのあぜ道に松の木が一本植わっており、そこに蝉が一匹鳴いている。炎天下、黙々と歩いて、こちらへと近づいてきた行者が、木陰で休むことなく、また何か声を発するでもなく、通り過ぎると、しまいには小さな点となって風景にとけこんでしまう」というような情景が浮かんでくるのだが。行者の歩みによって顕れる深閑とした時間の経過こそが主題なのではないかと思う。歩みそのものがどうであるかはたいした問題ではない。

しかし、露訳では「過ぐ」がбредетと訳される。研究社露和辞典には「のろのろ歩いていく。(足をひきずって)やっと[よたよたと]歩いていく」との訳が当てられている語。蝉が複数であるのとあいまって、例えば杉が生い茂り、そこら中から蝉の鳴き声が降ってくる山道を披露困憊の様子で辿る行者の姿が前面に立ち上がってくるように感じなくもない。

日本語の名詞には単複の区別はない以上、どちらで訳そうと、訳者の自由なのかもしれないが。しかし、イルドフランスにすらいなかった蝉がロシアにいるとは思えず、だからこそ、ロシア語でも「蝉」はラテン語を借入したцикадаであるわけで、そのような言語を母語とする訳者よりも自分の感覚の方を尊重したいというのが正直なところ。

http://air.ap.teacup.com/aer_aeris/30.html
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2006/9/11  15:48

 

神保町の名物書店がまた一つ、姿を消すことになったのは残念です。特に日本で唯一のロ 



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