父は英語の教師をしていた
常々私に言っていたことは『自分の教えている英語は使えない』
そう言われつづけた
私の高校時代、英語は五段階評価で2であった。父の話に耳を傾け傾け過ぎたか使えない英語を2で終えた
父は戦後間もなく口べらしのため街場の伯母宅へ預けられたそうだ
中高大学と伯母宅で育ったらしい
たまに帰省すると年差のある兄が待っていて嫌な仕事をさせられたそうだ
父の実家は半農半漁の小さな村だった
真っ暗な海に小舟を出し、湾内に駐留していた米軍の船に近づき、畑で育てた野菜やとれた小魚をサッカリン(甘味料)と交換して貰う。その時の通訳を命じられていたそうだ
当時砂糖は貴重だったらしい。そして当時の村で英語を学んでいるのは、父だけだったそうだ
ちょっと前まで敵国だった相手にいくら戦争が終わったからといっても直接会い交渉するということは、中学生の父には相当大変なプレッシャーだったに違いない
怖くて怖くて、プリーズとサンキューを大きな声で言っていただけという父の話。むしろ当時の交渉の様子をもう少し詳しく聴いていたなら、今の時代にピッタリの英語が私に身に付いていたかもしれない
晩年病にふし、いよいよ天に召される時、床にいた父が私に耳打ちした
『小引き出しの三段目にある封筒をとってきてくれ』
いよいよを感じ遺書でもあるのかと私は思った
真っ白な封書があった
父に手渡すと中を開けろという。開けて見ると千円札が三枚
??遺書ではない
父がか細い声で言った
『サマージャンボ連番10枚』
??意味がわからなかった『何?』
『サマージャンボ連番10枚それで買ってくれ。当たったら孫皆に分けてくれ』
父はそう言った
死が迫っているやもしれない瀬戸際にまさかサマージャンボ連番10枚と言われた娘はどうリアクションをとったらいいのかい父よ(笑)
今でも思い出すとクスクスしてしまう。きっと私も最後の時、子ども達を呼び
『パソコンをとってきて』と言い。子ども達はきっと母はPDFファイルにおさめられている遺書をみせるのではと思うかもしれない。
おもむろに私はパソコンを起動させ、ツイッター画面に【拡散希望】とうちこみ、ほかって逝きますと記しツイートするだろう
瞬く間にリツイート100が表示され安堵して笑みを浮かべる
というのを妄想している
遺伝
思わぬことが遺伝していく

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