さて、ストーンズの映画をもう一丁。
「ワン・プラス・ワン」。
ストーンズの映画というよりゴダールの映画だけど。
自分にとってゴダールの映画の中でも最も好きな一本なのだが、それは「傑作」であることを意味しない。
「傑作」とか「駄作」といった定義付けがほとんど意味を成さないような映画が「ワン・プラス・ワン」なのだ。
きっとゴダール自身「傑作」を撮ろうなどという気はさらさら無かったと思う。
なぜ、この映画が好きなのかと言えば、それは自由だからだ。
「悪魔を憐れむ歌」をレコーディング中のストーンズ。廃車置場で革命を準備し、白人女を射殺する黒人解放戦線の闘士たち(コント風)と、そのリーダーの革命とブルースに関するアジテーション。ポルノ専門書店内で、何の答えにも到達しない類いのアルゴリズム的動作を繰り返しながら、ヒトラーの「わが闘争」を朗読し続ける店員たち(これは完全にコント)。アンヌ・ヴィアゼムスキー扮する革命のヒロインと思しき女がテレビ局に取材される風景。そしてオフで延々と語られる政治ギャグ。
この映画の中で並列される、これらのエピソード同士に、何らかの因果関係があるとはとても思えない。そして編集され結果的に一本の作品となった後、そこに何か意味のあるメッセージ(=物語)が生み出されることも無いように感じる。そう、エピソードはただ羅列されるだけなのである。
なんか意味づけたいならお好きにどうぞ。でもそこには全く責任取らないよ〜ん。
というのがゴダールの基本姿勢だと思う。たぶん。その無責任さがすがすがしい。
ゴダールの目的は、おそらく各エピソードの分断にあったと思う。特にストーンズのパートの分断。「悪魔を憐れむ歌」はたびたび違うアレンジで演奏された上に、途中で演奏がストップする。別なエピソードが挟み込まれた後、今度はまた違うアレンジで最初から演奏される。その繰り返しがこの映画の基調音となっている。徐々に完成形に近づきつつも、結局、映画の中では曲は完成しない。そのこと自体は、特に何かを意味しているわけではない。重要なのは、繰り返しによってはじめて見えてくる「変化」である。ファーストシーンに存在したブライアン・ジョーンズがラストの方でいなくなっている(この撮影中にストーンズを脱退したのだ)という歴史的シーンも含め、これは変化についての映画ではないだろうか。
因果関係とか統合によって生み出される意味に対しては、全く責任を取らない。
逆に変化を顕在化させるためには、単調ともいえる分断と繰り返しを全く恐れない。
この映画にフリーダムを見た所以である。
しかし、ラストの海岸での撮影用クレーンの上昇シーン。
あの無駄な高揚感はなんだろな。

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