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このブログの主題歌 : アル・スチュアート / きみの靴の中の砂  プロローグ


Al Stewart / Sand In Your Shoes
 

2012/2/11

いつも夢中で見つめてた  貝殻これくしょん


Hiroko M. / I Always Stared At You Absorbedly


 ジマーマンが、なにゆえ姓をディランと改めたかについては諸説ある。彼の作る歌詞と比較すれば、やはりディラン・トマスにかぶれたというのが本命だろう。

 そのジマーマン、つまりボブ・ディランが、ウイスキーの飲み過ぎで早死にしたトマスの後継者を志したのは、英語圏の新しい詩人達にとっては大いに励みになったろう。

 彼等の詩は、日本語に翻訳しても難解なだけという評価があるが、英語特有の脚韻の響きを楽しめる語学力があるなら、それだけで彼等の詩の半分を味わったも同然である。しかし、その難解な日本語訳を模倣してディラン・トマスになったつもりの自称詩人も世の中に溢れているので頭が痛い。

 さて、僕などは、この歌の作詞者同様、日本語べったりの叙情的な綴り方のフォロワーだから、日本語が下手であることに起因する『意味不明』を除けば、難解なことは少しもない。


 

2012/2/6

翌朝  車窓に開く頁

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※テキストは、著者により削除されました。


 

2012/2/4

遙々旅して来たのだったが...  装う想い

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 カルタゴから吹く夏の風に曝される海を、ぼくは、ホテルの高い窓から見下ろしていた。
 色付きガラスを敷き詰めたような遊歩道が岬へと続き、遊ぶ娘達の原色の水着が砕けた虹のようだ。

 あの日、プールサイドで手を振った、きみの幻に逢えるかもしれないと、遙々旅して来たのだったが...。



Frisk Luft / I'll Never Find Another You


 

2012/1/29



NIAGARA TRIANGLE / Dreaming Day


※テキストは、著者により削除されました。


 

2012/1/28

いつも天然色のきみなのですが  装う想い

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夢は単彩だと聞きます。ならば、会う時は、いつもこんなふうなのでしょうか。

目覚めると、いつも天然色のきみではあるのですが...。


 

2012/1/27

昨日から思い出せない  幕間の出来事

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 もう戻らない過去、そのうち、なんの後悔をも伴わないのは就学前までの時間 ---- 自我が形成、凝縮された時代。
 果たして誰の言葉だったか、昨日から思い出せない。


 

2012/1/26

紅い、その小さな実  きみがいる時間

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 きみが市場で買った、おやつ代わりの小さなフルーツトマト。島の土壌が塩分を含み、痩せているために大きくなれないのだとか。それと引き換えに甘味が増すらしい。

「冷やした甘ぁい発泡ワインと一緒に食べたい」と朋子。

 日向のグラス越しの、紅い、その小さな実を想像しよう ---- 気泡に揺れ、沈むのを忘れた南海の夕陽のようだ。


 

2012/1/21

油絵の具よりも遙かに濃い  『夏の手帳』から

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 きみのいない部屋の隅に、いずれは整理しないとならないキャンヴァスがいっぱい。どれも、インスタマチック・カメラでも用が足りるような、そんな絵ばかり。まるでスナップ・ショットを何時間もかけて撮ったよう。特徴らしいところを挙げるなら、ハイ・キーで、厚塗りしないところか。このタッチにたどり着くまでに時間は随分かかった。

 良く見ることに没頭していた分だけ、きみの思い出は、ぼくの頭の中で、油絵の具よりも遙かに濃い。


 

2012/1/15

にゃんこ飯  車窓に開く頁

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 カール・サンドバーグの『シカゴ詩集』にある一篇、『霧』。岩波文庫に、恐れ多くも安藤一郎先生の翻訳がある。原題は ”Fog” ---- 実のところ『濃霧』と訳して頂きたかったのだが、先生の訳では “Mist” と区別が付かない。『濃霧』あるいは『深い霧』とされていたなら、シカゴの街特有のあの濃い霧が、『遅い猫の足取り』でやって来る感じが理解し易かったと思うのだが...。まあ、先人に楯突くのはこれくらいにしておいて...。

 ところで、ぼくの住んでいるところは、近くを流れる大河多摩川とその支流、そして街を囲む丘陵地との地形の兼ね合いから、春先の急に冷え込む夜、シカゴ同様の幻想的な霧が湧く。太平記に当地の小名として『霞ノ関』と記されているくらいだから、それは名物と言っても良いだろう。もっとも昨今、気候の変動からか、その霧もご無沙汰がちだが。

                            ***

 川縁にかつて老夫婦が住んだ一戸建ての古い民家があって、ふたりが亡くなったあと、だいぶ長いこと空き家となっていた。その間、それを知ってか知らずか、床下で野良猫の一家が慎ましい生活を営んでいた。
 ある年の霧の深い夜、仕事帰りに、その家の門口に、至極ありふれた赤い呑み屋提灯がポツンと灯っているのに気が付いた。誰かが家を買い取り、そのまま居酒屋を始めたかのようだ。ひょっとして、あの猫の一家が商売を始めたのかもしれないと、ぼくは空想してみた。だとすれば、女将も板前も猫なのだから、献立に殊更特別なものはないはずだ。仕入れ先も想像に難くない。店に入ってみる気は起きなかったものの、なんだか次第に可笑しさが込み上げてくるのだった。


 



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